2019/06/08

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(8)

(前回はこちら

詩人に憂いはつきものだが、自然を見るに苦しみは感じられない。その理由は、「景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである」と画工は考えました。詩であり画であるから、苦労や心配が伴うことなく、「吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむる」ことができる、と。
 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。然し自身が其局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んで仕舞う。従ってどこに詩があるか自身には解しかねる。
 これがわかる為めには、わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居る。見たり読んだりする間丈は詩人である。
恋や孝や忠君愛国も結構なものだが、自分がその局面の当事者になると、利害関係に巻き込まれてしまい、美しいことにも結構なことにも目が眩んでしまい、わからなくなってしまいます。これがわかるためには、自分の利害を棚に上げて、わかるだけの余裕のある「第三者の地位」に立たなければならない。「第三者の地位」に立っているからこそ、芝居や小説は面白いのです。そして、芝居を見たり小説を読んだりする間だけは詩人であるとも言います。

これまでは、自然の景色を見ながら、詩や画を中心として考えていましたが、ここで「芝居」や「小説」が出てきます。そして芝居や小説についての考えを進めていきます。
 それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつか其中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云う点に存するかも知れぬが、交らぬ丈に其他の情緒は常よりは余計に活動するだろう。それが嫌だ。
芝居や小説に人情はつきものです。芝居を見る人、小説を読む人は、たとえば、主人公に感情移入し経験を追体験することをひとつの楽しみにしています。芝居、小説の中の出来事ですので実際には利害関係は及びません。しかし画工は「それが嫌だ」と言います。
 苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽き飽きした上に芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。いくら傑作でも人情を離れた芝居はない、理非を絶した小説は少かろう。どこ迄も世間を出る事が出来ぬのが彼等の特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩歌の純粋なるものもこの境を解脱する事を知らぬ。どこ迄も同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場にあるものだけで用を弁じて居る。いくら詩的になっても地面の上を馳けてあるいて、銭の勘定を忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。
「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたり」という人情は人の世につきものです。画工は人の世につきものの人情は、人の世で間に合っている。だから「嫌だ」と言います。画工が求めている詩は、「世間的の人情を鼓舞するようなもの」ではなく、「俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩」です。

しかし、「人情を離れた芝居」や「理非を絶した小説」はあまりありません。特に西洋の詩は「人事が根本になるから」、塵界を離れた心持ちになれるような詩は見当たりません。同情や愛や正義や自由といった人の世にあることを主題にしています。「勧工場」というのは、デパートのようなものです。

『草枕』には、語り手の画工である余を通して、漱石の芸術観が描かれています。そしてその芸術観に則して書いてみた小説が『草枕』です。

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