2019/06/10

夏目漱石『草枕』をゆっくりじっくり読む(10)

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「淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥したい」。このような願いでもって、語り手である画工は今回の旅をはじめます。東洋の詩歌にあるような「出世間的な詩味」を、間接的ではなく、直接に自然から感じたいということです。
 勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳には行かぬ。淵明だって年が年中南山を見詰めて居たのでもあるまいし、王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寝た男でもなかろう。矢張り余った菊は花屋へ売りこかして、生えた筍は八百屋へ払い下げたものと思う。こう云う余も其通り。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿する程非人情が募っては居らん。こんな所でも人間に逢う。じんじん端折りの頬冠りや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の長い馬に迄逢う。百万本の檜に取り囲まれて、海面を抜く何百尺かの空気を呑んだり吐いたりしても、人の臭いは中々取れない。夫れ所か、山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。
向かう先は「那古井の温泉場」。「人の世」を作ったのは唯の人であるので住みにくいけれど、かといって、「人でなしの国」にいくほど非人情は募っていない。「すこしの間だけでも非人情の天地に逍遥したい」というのが、画工の願いです。
 ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の男、一人の女も見様次第でいかようとも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世小路の何軒目に狭苦しく暮した時とは違うだろう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時くらいは淡い心持ちにはなれそうなものだ。能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保証が出来ん。しかしあれは情三分芸七分で見せるわざだ。我らが能から享けるありがた味は下界の人情をよくそのままに写す手際から出てくるのではない。そのままの上へ芸術という着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をするからである。
人の世であるから人がいることは当然で、そこに人情があるのも当然です。しかし、非人情をしに出掛けた旅ですので、全く人情を離れることはできなくとも、見方次第では人情を離れることができるのではないかと考えます。「能」を見るように、人間も見ることができないかと考えます。次の段落は長いので、今回は引用だけにして、また次回読んでいきたいと思います。
 しばらく此旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。丸で人情を棄てる訳には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこ迄は漕ぎつけたいものだ。南山や幽篁とは性の違ったものに相違ないし、又雲雀や菜の花と一所にする事も出来まいが、可成之に近づけて、近づけ得る限りは同じ観察点から人間を視てみたい。芭蕉と云う男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅な事と見立てて発句にした。余も是から逢う人物を――百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも――悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見様。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支ない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、此方と衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなる程美的に見ている訳に行かなくなる。是から逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔てて居れば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて、彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑑識する事が出来る。

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