2019/06/23

尾張名古屋は城でもつ


尾張名古屋は城でもつ、と伊勢音頭に唄われている。尾張の名古屋は城で、名古屋城で保たれているということであり、名古屋の歴史を名古屋城抜きに語ることはできない。

名古屋城は、徳川家康により、慶長5年(1610年)から設営された。

天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦で勝利し、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開くものの、大坂にはまだ豊臣家がおり、不安の種は残っている。そこで家康は、尾張を江戸と大坂を結ぶ東海道の要とすべく名古屋城の築城を命じたという。名古屋城築城前は、清須城のある清須が尾張の中心地であった。しかし、清須城は水攻めの危険性、また水害の可能性があった。家康は名古屋城築城とともに、尾張の中心地を清須から名古屋に変えたのである。

清須城の表記として、「清須城」のほかに「清洲城」の表記がある。現在の固有名は「清州城」である。清州城公式ホームページでは、名古屋城築城での大移動、いわゆる「清須越」を境に、清須越以前を「清須城」、以後を「清洲城」としている。

清須城は室町時代に、下津城(稲沢市)の別郭として建てられた。その後、文明10年(1478年)に尾張守護所が下津城から清須城に移る。清須は鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要所でもあったため、尾張の中心地として栄えた。戦国期になると、織田信長が清須城に入る。桶狭間の戦いも清須城から出陣したといわれている。その後、天下統一のために信長は京都へ向かうも本能寺の変で斃れてしまう。信長の跡継ぎをどうするか、それを話し合われた場所は清須城で、この話し合いが「清須会議」である。

このように、尾張国は清須が中心だった。その状況での名古屋城築城であり、清須越である。「みやこ」と言えるかどうかはわからないが、清須越は遷都のようなもので、人とともに政治・経済・文化なども名古屋に移った。清須城は廃城。清須城の資材が名古屋城築城の際に用いられている。

現在、新しい都市を創るとしたらどうするだろう。おそらくは、現在最先端の技術や今後も残しておきたい文化などを駆使してデザインするのではないだろうか。

名古屋城は、当時の最先端の技術・文化を総動員して造られたものである。

江戸幕府の政策として、外様大名を江戸から遠方に配し、大名が軍事費を蓄えることがないように、公儀普請を命じてお金を使わせたという。名古屋城築城の際にも多くの大名が動員された。さらに、当初は軍事目的で名古屋城の建設がはじまったが、慶長18年(1615年)の名古屋城本丸御殿の完成前後には、大坂冬の陣・夏の陣により豊臣家の脅威が滅した。

新しい時代の幕開けの象徴として名古屋の、そして名古屋城の歴史がはじまった。

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