お世話になっている方に、ラーメン屋さんに連れて行ってもらった。
そのラーメン屋さんに行くのは2度目であるが、普段行かない地域で土地勘がなく、かつ、前回も今回も車で連れて行ってもらったので、たとえば次に一人で行こうと思い立っても一人では行けない。店の名前を覚えていたら検索できるかもしれないが、店の名前も忘れてしまった。
自分一人で訪れたり、事前に調べてから行ったりしたところは覚えていることが多い。忘れていたとしても何となく覚えていて、近くに来たりすると少しずつ思い出す。
普段、車に乗らないので、車内からの景色は知っている道でも違って見えたりする。
お世話になっている方に、ときどきスマホの使い方を教える。WEBやSNSの使い方の内容である。なかなか覚えられない。同じスマホでも、電話やメールの使い方は覚えている。
僕が車で走る道を覚えにくいのと同じように、その方はSNSの使い方を覚えにくいのだろう。
もし何かを覚えておきたいと思うならば、自分の足で行ってみる、自分の手でやってみることだ。そして、その前段階として、覚えていたいと思っているかどうかだ。慣れていることは自然と覚えている。必要なことを意識することはない。
うろ覚えの記憶を元に、連れて行ってもらったラーメン屋をGoogleマップで探してみる。それらしきところが見つかった。あとは実際に行って確認すれば、定着するだろう。
ただ自宅からは少し距離があり、「ここの、このラーメンが食べたい」という意欲がわかなければ、行こうという気にはなれない。食に対して興味の薄い僕は、その店の味を覚えていない。
2019/06/04
2012/06/11
記憶について
なんだかよくわからない文章になってしまっていますが、「記憶」について思うこと。
上手く言葉にすることができていません。
で、唐突にはじめますが、恩田陸さんの『光の帝国』は、特別な能力を持つ一族の物語です。
春田家の人々は、大きな引き出しを持っています。
ありていに言えば「記憶力」
並外れた記憶力です。
子どもが生まれると、真っ先に書見台をこしらえ、子どもはその書見台で書物を読み「大きな引き出し」に『しまって』いきます。
最初は何のために『しまって』いるのかわかりません。
しかし、どうやら『響いて』くるようです。
『しまう』ことに疑問を持っていた小学生の光紀が、初めて『響いた』ときの描写が以下です。
光紀は倒れた老人に駆け寄ります。
そして、肩をつかみ、視線が合った瞬間に『響き』はじめます。
その後、文庫本で約1ページほど、老人の人生が光紀に『響き』ます。
実際に体験したことはありませんが、人は死ぬ直前に自分の人生が走馬灯のように見えるという話はよく聞きます。
小説の中で、この老人は亡くなってしまうのですが、老人も亡くなる前に自分の人生が走馬灯のようにみえたのでしょう。
そして、光紀にもその走馬灯が見えたのだと思います。
記憶のメカニズムはまだ解明されていません。
私たちはどうやっていろいろなことを記憶しているのか。
私は、「記憶は遍在している」という考え方が好きです。
記憶は脳の中に蓄えられているわけではなく、身の周りのものや出来事、環境、状況、ありとあらゆるものに記憶が存在しているというような考え方です。
もちろん(!?)実証はできませんが。
先の引用の例でいうと、老人の記憶が光紀に移ったとか、移動したというのではなく、文字通り「見えた」「聞こえた」
まるで自分の記憶のように。
『サイコメトラーEIJI』という漫画がありましたが、それと同じようなもの。
説明でわかりやすかったのは京極夏彦さんの小説『姑獲鳥の夏』です。
小説や漫画での例ばかりですので、実際にはあるはずがない、と思われる方もいらっしゃると思います。
しかし、例えば、昔の写真をみてそのときの情景が浮かびあがったり、ある匂いから別の何かを思い出したりすることはあると思います。
もちろん頭の中にある忘れていた記憶が、写真や匂いがきっかけとなって脳裏によぎるとも言うことができますが、その写真や匂い自体に記憶があって、それを感じたとも言えなくはありません。
そして、私たちにも『響く』能力があるのではないか、と思っています。
上手く言葉にすることができていません。
で、唐突にはじめますが、恩田陸さんの『光の帝国』は、特別な能力を持つ一族の物語です。
春田家の人々は、大きな引き出しを持っています。
ありていに言えば「記憶力」
並外れた記憶力です。
子どもが生まれると、真っ先に書見台をこしらえ、子どもはその書見台で書物を読み「大きな引き出し」に『しまって』いきます。
最初は何のために『しまって』いるのかわかりません。
しかし、どうやら『響いて』くるようです。
『しまう』ことに疑問を持っていた小学生の光紀が、初めて『響いた』ときの描写が以下です。
光紀は老人の肩をつかむと叫んだ。いかつい顔の落ちくぼんだ目がかすかに動き、光紀の視線を捕らえた。毎朝通りかかる道で顔見知りの老人が、急に心臓発作で倒れます。
その瞬間、何か激しくて大きな質量をもったものが彼の中に押し寄せてきた。
それはさまざまな色を持ち、あふれる音を持っていた。
老人の人生のありとあらゆる声が、光紀の頭の中に、身体全体にこだました。
光紀は倒れた老人に駆け寄ります。
そして、肩をつかみ、視線が合った瞬間に『響き』はじめます。
その後、文庫本で約1ページほど、老人の人生が光紀に『響き』ます。
実際に体験したことはありませんが、人は死ぬ直前に自分の人生が走馬灯のように見えるという話はよく聞きます。
小説の中で、この老人は亡くなってしまうのですが、老人も亡くなる前に自分の人生が走馬灯のようにみえたのでしょう。
そして、光紀にもその走馬灯が見えたのだと思います。
記憶のメカニズムはまだ解明されていません。
私たちはどうやっていろいろなことを記憶しているのか。
私は、「記憶は遍在している」という考え方が好きです。
記憶は脳の中に蓄えられているわけではなく、身の周りのものや出来事、環境、状況、ありとあらゆるものに記憶が存在しているというような考え方です。
もちろん(!?)実証はできませんが。
先の引用の例でいうと、老人の記憶が光紀に移ったとか、移動したというのではなく、文字通り「見えた」「聞こえた」
まるで自分の記憶のように。
『サイコメトラーEIJI』という漫画がありましたが、それと同じようなもの。
説明でわかりやすかったのは京極夏彦さんの小説『姑獲鳥の夏』です。
小説や漫画での例ばかりですので、実際にはあるはずがない、と思われる方もいらっしゃると思います。
しかし、例えば、昔の写真をみてそのときの情景が浮かびあがったり、ある匂いから別の何かを思い出したりすることはあると思います。
もちろん頭の中にある忘れていた記憶が、写真や匂いがきっかけとなって脳裏によぎるとも言うことができますが、その写真や匂い自体に記憶があって、それを感じたとも言えなくはありません。
そして、私たちにも『響く』能力があるのではないか、と思っています。
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