自分の思っていること・感じていること・考えていることを相手に伝える、とても便利な道具です。
言葉があることで、人類はさまざまなことを成し遂げています。
旧約聖書の「バベルの塔」の話。
人間が共通の言語を持っていたころ、天に届く塔を作ろうとしていました。
それを見た神は、塔を破壊し、言語をバラバラにした、と。
本当の話か作り話かはさておき、言語、言葉の力がとてつもないことを表現しています。
しかし、言葉もひとつの道具。
コミュニケーションをとるため、協力体制をつくるためなど、ひとつの道具です。
今、読んでいる小関智弘さんの『職人学』という本の中に、興味深い記述がありました。
鏨(たがね)で鉄板を削(はつ)る仕事について、です。
鉄板に引いた線に沿って、左手で鏨を握り、右手でハンマーを振って鏨の頭を叩き切り進めていく仕事です。
ハンマーが正確に鏨の頭に当らないと、ハンマーで自分の左手を打ってしまいます。
ハンマーで左手を打つのが怖いので、目はどうしても鏨の頭を見てしまいます。
すると、先輩職人から「どこを見てハンマーを振っているんだ。鏨の先を見ろ」と罵声が飛びます。
先輩職人に理由をたずねると「俺も、そう教えられた」と。
小関さんはここで、「理屈ではなかったが、理にかなっていた」として次のように書いています。
鏨で削る仕事というのは、鏨の刃で正確に罫引き線のとおりに鉄板を切る仕事である。だから刃先が罫引き線どおりに切り進んでいるかどうかを、目で確かめながらハンマーを振る必要がある。左手を打たないようにハンマーを振るのが仕事ではない。
言葉にも当てはまるように思います。
誰かに何かを話すとき、あるいは誰かの話を聞くとき、それは、自分の思いや考えを伝えたい、あるいは相手の思いや考えを理解したいときです。
言葉を正確に伝える、あるいは逆に、言葉を一字一句間違わないように覚えるためではありません。
言葉そのものよりも、言葉のもとにあるものに焦点をあてていきます。
「わもん」では、そこを「絶対点」と呼んでいます。
『職人学』の先の引用にはその続きがあります。
それができるようになるまで、わたしは何回も左手を腫れあがらせなければならなかったが、やがてほんとうに、先輩職人の言うとおり、鏨の先を見ているほうが、ハンマーは正確に鏨の頭を打つのだと実感できるようになった。
話を聞くことも、絶対点に焦点を当ててしっかり聞けるようになるまでには、何度も失敗するかもしれません。
しかし、絶対点に焦点を当てて聞いている方が、言葉もしっかり聞けるようになるのではないかと思います。
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