その中で、「わもん」の考え方に近いと感じたのは、「禅」ではなく、「芭蕉の本質論」でした。
もちろん「禅」も、あるいは私が今まで少し触れてきた「儒教」(『意識と本質』の中では、「宋代の理学」「孔子の正名論」として取り上げられています)も重なる部分は多々ありますが、「芭蕉の本質論」での「物に入りて、その微の顕われる」という箇所が、「わもん」における聞き方・在り方に非常に似ていると感じました。
以下はその一節。
そういう瞬間にだけ、ものの「本情」がちらっと光る。「物の見えたる光」という。一瞬の、ひらめく存在開示。人がものに出合う。異常な緊張の極点としてのこの出合いの瞬間、人とものとの間に一つの実存的磁場が現成し、その場の中心に人の「……の意識」は消え、ものの「本情」が自己を開示する。芭蕉はこの実存的出来事を、「物に入りて、その微の顕われ」ることとして描いている。「物に入る」とは、ものが「……の意識」の対象ではなくなること、つまりこの出来事が、人の側においては、二極分裂的意識主体の消去であることを指し、「その微が顕われる」とはものの側では、それの「微」、すなわち普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで目に見えぬ「本情」が自らを顕わすことを指す。
「本情」というのは、『意識と本質』での言葉を借りると、「個々の存在者に内在する永遠不易の普遍的『本質』」「事物の存在深層に隠れた『本質』」です。
事物の奥に隠れひそんでいた「本情」、変わることのない普遍的本質がちらっと光ることを「物の見えたる光」と表現しています。
その瞬間は、自分が事物を見ているというような「……の意識」は消えています。
この出来事を「物に入りて、その微が顕われる」と表現し、自分と事物という二極分裂はなく、自分の側から見れば(言葉では二極分裂してしまっていますがご了承ください)「物に入る」ということになります。
換言すると、自分と事物の境界がなくなり一体化する、ということです。
そのとき事物の「微」すなわち「本情」が顕われます。
自分と事物の境界はありませんので、自分が「本情」を感じます。
最近、「わもん」での聞き方の際に、よく「重心を相手におく」という言い方がなされます。
先に引用した芭蕉の本質論では、対象を事物として説明していますが、対象を話し手の「話」「言葉」と置き換えると「わもん」の聞き方に似ています。
相手の言葉をしっかりと聞いていると、その「本情」がちらっと光る。
この出来事が、聞き手である自分においては二極分裂的意識主体の消去であることを指し、相手の側では普通は存在の深部に奥深く隠れひそんで聞こえない「声なき声」が自らを顕わすことを指します。
芭蕉はこの「物の見えたる光」を俳句という詩的言語に結晶させます。
「わもん」では「声なき声」を、言語的あるいは非言語的な表現として結晶させていくことではないかと思います。
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