詩に云う、「彼の淇の澳を瞻るに、菉(緑)竹猗々たり。有斐しき君子は、切るが如く磋くが如く、琢つが如く磨るが如し。瑟たり僴たり、赫たり喧たり。有斐しき君子は、終に諠るべからず」と。切るが如く磋くが如しとは、学ぶを道うなり。琢つが如く磨るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄なるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。有斐しき君子は、終に諠るべからずとは、盛徳至善にして、民の忘るる能わざるを道うなり。
『詩経』の衛風淇奥編の武公の徳をほめた歌の一節を引用し、解釈をしています。
『詩経』には「あの淇の川のくまを見れば、緑の竹が美しく茂っている。〔その竹のようにすばらしい〕才能ゆたかな君子は、〔まるで細工師が〕切りこんだうえにやすりをかけ、たたいたうえにすり磨くように、〔どこまでも〕修養をする。慎しみ深くみやびやかで、はれやかに輝かしい。ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」とうたわれている。「切りこんだうえにやすりをかけるよう」というのは、人について学ぶことを言ったのである。「たたいたうえにすり磨くよう」というのは、自ら反省して修養することである。「慎しみ深くみやびやか」というのは、内に省みて恐れかしこむことである。「はれやかに輝かしい」というのは、気高く礼儀正しいありさまである。「ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」というのは、盛んな徳をそなえて最高の善におちつく人は、民衆にとって忘れることができないというのである。
「切磋琢磨」とは、国語辞典では次のように書いてあります。
①知識や徳をみがくこと。
②友だちなどがおたがいにはげましあって努力し、向上すること。
『三省堂国語辞典 第五版』より
「知識や徳をみがくこと」という意味と、「(友だちなどが)おたがいにはげましあって努力し、向上すること」という意味があります。
この2つ目の意味はどこから来たのでしょうか?
何の傍証もなく、私見ではありますが、『論語』での孔子と子貢のやりとり(学而第一・15「子貢曰、貧而無諂、~」)から付加された意味のように思います。
子貢の問いが孔子を引き立たせ、孔子の応えが子貢に気付きを与える。
「切磋琢磨」とはこのことをいうのですね。
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