2012/09/04

わもんな言葉14―聞き手未熟

『論語』の中で有名なもののひとつに、次の言葉があります。
「人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う」

人が自分のことをわかってもらえないことを心配するな。

自分が人のことを知らないことを心配しなさい。

というような意味です。


「わもん」でいう「聞き手未熟」と同じようなことを指しています。


「聞き手未熟」とは、書籍『わもん』から引用すると、
「わもん」において、会話がうまく運ばない、話し手が話をしてくれない場合に、その理由や原因は聞き手にあるという真理。思うように話を聞けないとき、話し手の性格や態度、話を聞く環境などのせいにしていると、「わもん力」は磨かれないとする考え方。「わもん」上達のためには、心の矢印を自分に向け、聞けない原因を自分自身のなかに求めることが必要であると心得る姿勢。
です。


冒頭の『論語』の言葉は、『論語』の中でも特に重要視されている言葉ではないかと思います。

その理由は、何度も出てくる言葉だからです。


『論語』は、(人によっては別の篇立てをする方もいらっしゃいますが、)20篇から成り立ち、その篇の最初の2字(あるいは3字)をとって篇名としています。

冒頭に挙げたのは「学而篇」の言葉。

同様な言葉が他の篇にも現れます。
「位なきを患えず。立つ所以を患う。己を知る莫きを患えず。知る可きを為さんことを求む」(里仁篇)
「人の己を知らざるを患えず。其の不能を患うるのみ」(憲問篇)
「君子は能くする無きを病む。人の己を知らざるを病まず」(衛霊公篇)
『論語』の成立過程は詳らかになっていませんが、同じような言葉が頻繁に現れてくるのは、『論語』にかかわる多くの人が、この言葉は大切であると認識してきた結果であると思います。


「聞き手未熟」に即していえば、「人が話をしてくれないことのを憂うな。自分が聞くことができないことを憂いなさい」とでも言えるでしょうか。


私見ですが、「わもん」と「儒教」(「儒学」といった方がいいかもしれません)とは相性がいいように思います。

『論語』は、儒教における四書のひとつ。

そして儒教は、己を修め人を治める「修己治人」の教えだといわれています。


「わもん」とは、「聞く修行」。

話をただただ聞くことを修行と位置づけ、自分自身の聞き方、在り方、生き方を見つめます。

聞くことは、自分自身の修養です。


話し手は「聞いてくれてありがとう」

聞き手は「話してくれてありがとう」


自分自身の「聞く力」、「わもん力」を高めることで、周りの人を輝かせていくことを目指しています。