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2013/07/13

わもんな言葉46-さとり

「さとり」という妖怪がいます。

人の心を読むことができる妖怪です。

鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では、「覚(さとり)」という名前で、猿のような姿が描かれています。


Wikipedia「覚」より


さて、この「さとり」という妖怪ですが、なぜ妖怪なのでしょう?

人の心が読めるというすごい能力を持っていながら、神様や仏様ではなく、なぜ妖怪なのでしょう?

人の言葉を解し、人の心を読めるけれども、獣として描かれた理由は何でしょうか?


柳田國男(だったと思います)は、妖怪を「神の零落した姿」としました。

零落した理由は何でしょうか?


妖怪「さとり」に対して、鳥山石燕は「覚」という漢字を当てています。

一方、妖怪のことではありませんが、「さとり」を「悟り」と書くことがあります。


「覚り」と「悟り」の違いは何か?

これが、妖怪と神様仏様とを区別する違いだとしたら…。


手元の漢和辞典には、「覚」と「悟」のそれぞれの漢字の成り立ちからの意味について、次のようにありました。

【覚】見聞きした刺激が一点に交わってまとまり、はっと知覚されること。

【悟】神経が分散せず、×型にある一点で交差して、はっと思いあたること。


似たような意味ではありますが、何となく私はこのように考えます。


「覚」には「見」という漢字が使われています。

ちなみに「見」が部首だったのを漢和辞典で知りました。

妖怪「さとり」は、人の身体のちょっとした動きや反応で相手の心を読むことに長けている人(?)だと思います。

見て覚るのが「覚り」。

見たこと聞いたこと、知覚したことをひとつにまとめることができることが「覚り」。


一方、「悟」には、「吾」という漢字が使われています。

部首は「心(りっしんべん)」。

自分の思い、自分の心がひとつにまとまる、まとめることができることが「悟り」。

また、「心」を「言」に換えると「語」になります。


「覚」は外側から一点に収斂する、「悟」は内側から形作り一点になるのではないか、と。


「わもん」には、「聞くわもん」と「話すわもん」があるとのこと。

「覚」を「聞くわもん」、「悟」を「話すわもん」とすると、「わもん」とは「覚悟」となります。


聞けば叶う〜わもん入門
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2012/09/12

わもんな言葉15―話すわもん

「人は“ひらがな”で話を聞いている」

西任暁子さんの『「ひらがな」で話す技術』に書かれている言葉です。

なるほど、と思いました。


文字は別として、音声での言語表現は物理的にみると音の連続です。

横軸に時間、縦軸に周波数をとってグラフに表しても、単語の切れ目や文節の切れ目がどこにあるのか、そのグラフを見ただけではわかりません。

グラフから言葉の意味を読むことはできません。


そうやって耳に入ってくる音の連続を私たちは「ことば」として聞いています。

アクセントや抑揚など、単語や意味のまとまりを示す目印はあるにしても、かなり不思議ですごいことです。


このことをわかりやすく表現した言葉が、冒頭の「人は“ひらがな”で話を聞いている」という表現だと私は認識しています。


「人は“ひらがな”で話を聞いている」ならば、わかりやすい話し方は「“ひらがな”で話す」こと。

『「ひらがな」で話す技術』は、わかりやすく話すための方法について書かれた本です。


この本を読んだとき、「話すわもん」を思いうかべました。


「わもん」は漢字で書くと、「話す」と「聞く」で「話聞」。

「わもん」は「聞く修行」といい、「聞く」に重点を置いていますが、「わもん」の提唱者やぶちゃんは、「わもん」には「話すわもん」と「聞くわもん」がある、といいます。



『「ひらがな」で話す技術』では、「はじめに」の中で、西任さんは次のように言います。
大切なのは、自分の話が「相手にどう聞こえているのか」を徹底的に考え抜くこと。「音」で聞いている相手の頭の中がどういう状態なのか、常に想像することなのです。

おもしろいと思ったのは、『「ひらがな」で話す技術』の最終章が「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というタイトルだったことです。

わもん日めくりカレンダーに「心の矢印を自分に向ける」という言葉があります。

「聞くとき」と「話すとき」では心の矢印の方向が逆。

言い換えると、聞き手と話し手の心の矢印の方向は同じ。

聞き手と話し手が、対立(→←)ではなく、方向を同じく(→→)すれば、合力となり、より深い話が聞ける、話せるのではないかと思います。


【追記】
ここまで書いて公開しましたが、心の矢印について誤解されてしまう可能性がありますので追記します。

わもん日めくりカレンダーの「心の矢印を自分に向ける」というのは、話を聞くときに、話し手を責めたり、否定したり、誰かのせいにせず、自分に向けることを指します。

一方、『「ひらがな」で話す技術』の「「話す」とは心の矢印を相手に向けていく作業」というのは、相手目線で話すという意味で「心の矢印」という言葉を使っています。

「『聞くとき』と『話すとき』では心の矢印の方向が逆」と書きましたが、話すときには聞き手を責めたり、否定したりする、という意味ではないことを付け加えておきます。

最後の文章は、矢印の方向を変えて、
聞き手と話し手が、対立(→←)ではなく、方向を同じく(↓↓)すれば、合力となり、より深い話が聞ける、話せるのではないかと思います。
とした方が、「深い話」ともイメージが合致します。


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