2012/12/11

わもんな言葉20-教化より感化

「教化」と「感化」、それぞれを手元の国語辞典でひいてみると以下の意味が載っていました。
【教化】(名・他サ)教えて感化すること。
【感化】(名・他サ)知らず知らず・いい(悪い)ほうに変化させること。

見出し語とその意味の間には、(名・他サ)という略号があります。

「名」というのは「名詞」、「他サ」というのは、「他動詞・サ行変格活用動詞」という意味です。

「教化」「感化」という語は、名詞としても扱われますし、動詞「する」を伴って「教化する」「感化する」というように動詞としても取り扱われます。

「教化する」「感化する」はどちらも他動詞で、文を作るときには目的語を伴います。

例えば、「国民を教化する」「国民を感化する」というように、「~を」という目的語を伴います。


さて、「教化」「感化」ともに「教・化」「感・化」というように、「教」「感」それぞれに「化」(接尾辞?)をつけた語です。

これら「教」「感」は、動詞としては「教える(あるいは、教わる)」「感じる」となります。

「教化する」「感化する」と「教える(教わる)」「感じる」の関係を考えてみると興味深いことがわかります。


先に「国民を教化する」「国民を感化する」という例を挙げましたので、そこから考えてみましょう。

「国民を教化する」で「教える」のは誰でしょうか?

ここでは表示されていませんが、「教える」という行為をする人は「国民」ではありません。

「国民を教化する」というのは、誰かが「国民」を(に)教えて変化させる、という意味です。


では、「国民を教化する」の「教」を「教わる」と考えてみましょう。

そうすると、国民が教わって変化する、という意味になります。


同じように「国民を感化する」という例ならば、国民が感じて変化する、という意味になります。


構造的に対になるように解釈するならば、「国民を教化する」は「国民が教わって変化する」、「国民を感化する」は「国民が感じて変化する」。


「国民が教わって変化する」よりも「国民が感じて変化する」の方が、何となく国民の主体性が感じられます。

自ら変わった、という意味合いが強く感じられます。


「教化より感化」というのは、相手を変えようとするのではなく、自然に変わってもらうことです。


以下は、株式会社わもんのHPからの引用です。
わもんが目指しているもの
「人を動かす」から「人が動き出す」ことを目指しています。
徹底して聞きこむことで、相手の中にある答えを自然と見つけ出します。
そのとき、相手は自らの答えを理解納得して自ら動き出すようになる。
そして、究極は動き出すから走り出すへ。

わもん -聞けば叶う

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