心徒塾の帰りの電車の中で、やぶちゃんと常ちゃんと私の3人で話をしていたとき、「型」についての話題がでてきました。
話の聞き方について型がない、ということだけでなく、心徒塾の進行でのやり方にも型がない、という話です。
その際、最近ブログか何かで読んだ話を思い出しました。
「型のない人というのは『かたなし』で、型はあるけれどもその型にとらわれないのは『型破り』だ」
という内容。
家に帰ってからどこで読んだか確認すると、ブログには違いないけれども、ツイッターの内容でした。
Twitterブログ:週間リツイート(RT)ランキング(11月29日から12月5日)
「若い人はすぐ型破りをやりたがるけれど、型を会得した人間がそれを破ることを『型破り』というのであって、型のない人間がそれをやろうとするのは、ただの『かたなし』です」……以前テレビでおっしゃっていたこの言葉は、僕の創作に対する姿勢の原点です。勘三郎さん、ご冥福をお祈りいたします
— 青柳碧人さん (@aoyagi_) 12月 4, 2012
先日、中村勘三郎さんがお亡くなりになり、その勘三郎さんのおっしゃっていた言葉のようです。
「守破離」という言葉を思い出します。
思うに「型」というものは、最初から存在していたわけではないと思います。
先人の方々が磨き上げてきたものが「型」ではないかと。
歌舞伎のことはよく知りませんが、歌舞伎の型は先人達の何らかの思いがあり芸を磨いてきた結果生まれたものという認識です。
ならば、「型」は守るだけではならなくなります。
磨き上げていた思いがあるならば、現在ある「型」をそのまま「型どおり」にするのではなく、現在ある「型」を磨き上げていくことが本当の「型」ではないかと。
そして、試行錯誤の過程にあるのが「型破り」ではないかと。
こんなことを考えているときに「枠」も同じだなあと思いました。
何らかの試行錯誤(あるいは1回のみかもしれませんが)の結果、「枠」ができる。
「型」ならば何らかの意図が含まれているように思いますが、「枠」はどうでしょうか。
何となく、「枠」と聞くと、形骸化しているように響きます。
そして、「枠」はなかなか気付かないものです。
では、「枠」に気付くにはどうすればいいか。
それには、「他者を理解すること」が一番だと思います。
自分と他者の違い、それが「枠」だと思います。
それを他者の「枠」ととるか、自分の「枠」ととるか。
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