2012/10/23

「わかる」は「わける」

遅ればせながら、最近、井筒俊彦さんの『意識と本質』という本を読んでいます(何に遅れているか、ということは聞かないでください…)。

内容を一言でいうならば、「東洋哲学での本質論入門」とも言えるかと。

哲学書の類はあまり読んだことがなく、哲学用語にもあまりなじみがなく、文章は難しく感じるのですが、この本の中で説明される「禅」の説明は、今までよりも「禅」について深く理解できたように思います。

もちろん「禅」は理解するものではなく、実戦することであることは理解しているつもりです…。


言葉・言語に興味がある私にとって、言葉を嫌う(といっては語弊があるかもしれませんが)「禅」は相容れないものかもしれませんが、その思想・考え方(これらの言葉も「禅」にとっては語弊がある)はとても興味がある分野です。


この『意識と本質』をもとに、これから、自分の理解したこと、そして自分自身の言語観を書いていきたいと思いますが、おそらくひとつの記事ではまとまらないと思います。

その点、ご容赦ください。


「わかる」は「わける」

「『わかる』は『わける』」という言葉は、『意識と本質』の中には出てきませんが、この現実世界と言葉の関係については考察されています。
経験界で出合うあらゆる事物、あらゆる事象について、その「本質」を捉えようとする、ほとんど本能的とでもいっていいいような内的性向が人間、誰にでもある。これを本質追求とか本質探求とかいうと、ことごとしくなって、何か特別なことでもあるかのように響くけれど、考えてみれば、われわれの日常的意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の「本質」認知の上に成り立っているのだ。日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟などからなるわれわれの表層意識の構造自体の中に、それの最も基礎的な部分としてそれは組み込まれている。
引用部分だけ読むとあまり内容がわからないかもしれませんが、簡単にいうと、「人間だれしも本質を捉えようとする傾向がある」ということです。

では、「本質」とは何か?

「本質」を一言で簡単にいうことはできませんが、ここでは単純に「コトバ」「名前」だとしておきましょう。


たとえば、「花」を見るとき、視線の先には「花」があります。

その花は桜かもしれませんし、チューリップかもしれません。

しかし「花」と呼びます。

そしてその花は、他にどこにもない固有の花。

「人」でも同じです。

だれ一人同じ人はいないのに、「人」と呼びます。

「花」を花たらしめているもの、「人」を人たらしめているものは何か?

これが「花」の「本質」、「人」の「本質」ではないか、ということです。


プラトンの「イデア論」を思い起こさせます。


「イデア論」はさておき、日常的意識、表層意識では「本質」認知が基礎にあります。

「花」を見るというとき、それが「花」と呼ばれるものであることを前もって知らなければ、言葉を換えると、「花」の「本質」を漠然とでも認知していなければ、それを「花」と呼ぶことはできません。


コトバというものは、この世界に印をつけたものです。

「本質」についた印が「コトバ」ということもできますし、「コトバ」が「本質」を指し示しているともいうことができます。

コトバ・言語には、この経験的世界を分節するという作用があります。


思考が先か、言語が先かというのは、にわとりと卵の関係のような気がしますが、私たちは言語によって、この世界を理解しようとしています。

有名な説としては「サピア・ウォーフの仮説」でしょうか。

日本では虹は何色と尋ねられれば七色と答える方が大半でしょうが、例えば英語ならば六色とすることもあるようです。

しかし、虹を光のスペクトルと考えるとこれは色の連続体です。

どこからどこまでが「赤」で、ここからは「黄色」で、という明確な境界線があるわけではありません。


言語には、分節する作用、境界線・枠組を作る作用があります。

そして、そうすることで世界を理解しようとしているのです。

「わかる」ことは「わける」ことです。

「理解」の「解」という漢字にも「わける」という意味があります。


言語の分節作用については、まだまだ上手く説明できたとは思えませんが、これらのことは私も普段から(いつもいつもではないですが)考えていたことです。

「本質」については考えたことはありませんでしたが。

このようなことを上手く説明できる言葉がほしいと常々思います。


『意識と本質』では、この「本質」把握を前提として、東洋哲学の本質論を共時的に分類・紹介しようとしています。


書いているうちに、何を書いているのかわからなくなってきました…。

まだまだ理解は足りないようです…。

時間も時間ですし、今日はこの辺で。