子曰く、弟子入りて則ち孝、出でては則ち悌たれ。「弟子」は「でし」ではなく「ていし」と読み、若者を指します。
謹みて信、汎く衆を愛して仁に親づけ。
行ないて余力あらば、則ち以て文を学べ。
若者は家庭生活では「孝」(親孝行の「孝」)を、社会生活では「悌(てい)」(目上の人を敬うこと)を行いなさい。言行を謹み、言行一致を、そして世間の人々を愛し「仁」に近づきなさい。
「サーバント・リーダー」を思い起こさせる一文(いや、二文)です。
「サーバント・リーダー」について、金井壽宏さんは、『サーバントリーダーシップ』(グリーンリーフ著)の「監訳者序文」の中で次のように言っています。
「サーバントとしてのリーダー」という言い回し、また、「サーバント・リーダー」という語法が、人をどきっとさせるのは、普通は、サーバント(言うことを聞いて、相手に尽くす人)と、リーダー(目指している方向に、相手を引っ張っていく人)とは、相容れないと思えるからである。サーバントは、(さすがに召し使いとまで言わなくとも)「使用人」「家来」「従者」「しもべ」「奉仕者」といった言葉が通常の訳語であるため、どちらかと言うと、リーダー(導く人)よりもフォロワー(従う人)をイメージする。両者は、相容れないどころか対極のようにも思える。しかし、実際には、フォロワーは、自分に尽くしてくれる人についていくものなのだ。その結果、気がつくと奉仕をしているタイプの人が、リーダーになっていることは多いし、奉仕者として素養のある人がリーダーになるほうが、かえって望ましい。
孔子はまさしく「サーバント・リーダー」の典型です。
(『サーバントリーダーシップ』のなかにも、『論語』についての言及があったように思います。)
今回取り上げたこの一節にはリーダーという言及はないのですが、「奉仕」の姿がありありと浮かびあがります。孔子自身、「仁」の道を歩み続け、結果としてリーダー(導く人)となり、多くの門人がそれに従っています。
親孝行をし、目上の人を敬い、言行を一致させ、他人を愛していく。
そして、余力があったら「文(古典)」を学べ。
親孝行もしていないのに、古典を学んでいる私です。。。
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