「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、…」
そして、そのすぐ後に、以下のような回答が出ています。
「定義の問題です。左右だけが、定義が絶対的でないからです。上下の定義は空と地面、あるいは、人間なら頭と足で定義されます。前後も、顔と背中で定義できます。では、左右はどうでしょう? 左右の定義は、上下と前後が定まったときに初めて決まるのです。人間の体型が左右対称ですし、歩いたりするときも横には動きません。上下と前後の定義が独立していて、絶対的なものであるのに対して、左と右の定義は相対的です。この定義のために、鏡で左と右が入れ替わるんですよ。」
鏡の中では、上下は反対に見えないのに、左右が反対に見えるのはなぜか? この問題は「鏡像問題」と言われています。
先日ツイッター上で、この問題についてやり取りをしていて、鏡像問題自体が面白いと思ったこと、そしてこの鏡像問題からいろいろな興味が出てきたので、そのことについても若干ふれてみたいと思います。
森さんの小説を読んだとき(「鏡像問題」という言葉は知りませんでした)、「なるほどな」と思い、納得はしていたのですが、ツイッター上でのやり取りの後に小説の該当箇所を読んだとき、ちょっと違和感を感じました。それは、
「鏡に映った像は、左右が反対になりますね。どうして、上下や前後は逆にならないで、左右だけ入れ替わるのか、…」という問題部分の「前後」という言葉です。
上下は逆にならないのはわかるのですが、「前後は逆になっているのでは?」と感じました。
鏡の前に立って姿を見ると、鏡に映った私は、私の方を向いています。向かい合わせの状態です。私は前を向いていて、鏡に映った私も前を向いています。しかし、鏡に映った私は私から見ると後ろを向いていることになります。
図にしてみると以下のような状態です。
【図1】前後が逆になっている?
鏡は平面なので、実際はこのようなことはないのですが、わかりやすくするために上から見たイメージ図を描いてみました。下半分が現実の私で、鏡の方を向いている状態、真ん中の横棒が鏡、上半分は鏡に映った私、というイメージです。前後が逆になっているのではないか、と思います。
「右手を挙げると、鏡に映った私は左手を挙げる」と考える人は、鏡に映った私を基準に左右を定義しています。
「右手を挙げると、鏡に映った私は右手を挙げる」と考える人は、自分を基準に左右を定義しています。
どちらもあり、ですね。
前後も同じで、私のように「前後が逆になっている」と考える人は、自分を基準に前後を定義しています。
逆に「前後は変わらない」と考える人は、鏡に映った私を基準に前後を定義しているのです。
これも、どちらもあり、のような気がします。
「左右が逆になる・ならない」「前後が逆になる・ならない」でパターン分けすると、以下の4パターンになります。
【図2】前後左右が逆になる
【図3】前後左右は変わらない
【図4】前後は変わらないが左右が逆になる
【図5】前後は逆になるが左右は変わらない
そこで、私の向きを変えてみます。するとどうなるでしょうか?
【図6】図2の向きを変えてみる
【図7】図3の向きを変えてみる
【図8】図4の向きを変えてみる
【図9】図5の向きを変えてみる
いくら偏屈な私でも、【図7】【図8】はおかしいと感じます。前後が逆になっているからですね。
やはり、前後は変わらない、と言った方がいいですね(^-^;)
ところで、「前」「後」「左」「右」という言葉は、相対的な位置関係(空間関係)を示す言葉です。
世界中の言語の中には、日本語のように相対的に空間関係を示す言葉を持たず、絶対的な空間関係を示す言語もあるようです。日本語で言うと「東を向いている」とか、「北に曲がる」とかの表現で空間関係を示す言語があるとのこと。
また、時間の表現方法は、多くの言語で空間表現と似通っています。アインシュタインの相対性理論は、時間と空間の関係の理論でもありますが、言葉でも時間と空間はつながっています。
そして、全然別の話になりますが、コーチングでのコーチの役割として「鏡になる」とか、「ミラーリング」というスキルもあります。
鏡像問題から、様々な疑問・興味がふつふつと湧いている今日この頃です。
時間を表わす言葉は不思議。過去を表現するとき、何年前とか何時間前とかという。逆に未来を表わすのには、何年後とか何時間後とか。私たちは未来の方を向いていないのかな。
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