2011/02/17

学而第一・9「曾子曰、慎終追遠、~」

曾子曰く、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳厚きに帰す。

この文の解釈は2つに分かれているようです(というか、2つの訳しか見ておらず、その2つが違っています)。

斉藤孝『現代語訳 論語』での訳を引用すると、
「人の上に立つ者が、親をしっかりと弔い、祖先を供養するなら、民の徳も感化されて向上するだろう。」
加地伸行『論語』での訳を引用すると、
「人々が父母の喪においても、祖先の祭祀においても、まごころを尽くすのであれば、その道徳心はすぐれたものになる。」
と、「慎終追遠」の主語が「上に立つ者」なのか「人々」なのか、の解釈の違いです。

加地伸行『論語』では、
一般に、「慎・追」の主語を世の指導者とし、模範的行動とするが、喪礼等は社会的儀礼としてすでに存在していた。この章の主張したいことは、形式ではなくて内容(まごころ)にあるので、主語を民としたほうが一貫している。
と述べています。「この章」というのは、「学而第一」の章を指します。(斉藤訳は注釈本の類ではないため、なぜこのような解釈としたかについては記載がありません。)



このブログでは「学而第一」等に統一していますが、「学而編」などとも呼ばれたりします。英語でいうchapter名として『論語』では「学而」「為政」等のチャプターに分かれています。

この「学而」というチャプター名には特に意味があるわけではなく、例えば「学而」では、そのチャプターが、単に「子曰、学而時習之。~」で始まっているため「学而」とつけられています。

このチャプター分けには定説があるわけではない、とのこと(加地伸行『論語』)ですが、時系列に孔子の言行が並んでいるわけではないので、編纂者・編集者の何らかの意図は存在すると思います。加地さんはそこに目をつけて「『学而』での主題は、形式ではなく内容(まごころ)にある」と述べているわけです。「学而」は為政者の在り方がテーマではないため、主語を「民」としています。

この「学而編」、全部で16の文から成りますが、私には、まだはっきりとしたテーマがわかっておりません。この記事までで9つの言葉を見ていますが、未だ能わず、です。

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