身近にある国語辞典で「れる・られる」を引いてみると、
【(ら)れる】ここでは、①の意味を「受身」、②の意味を「被害」、③の意味を「自発」、④の意味を「可能」、⑤の意味を「尊敬」と呼びます。
①相手の動作・作用を直接受ける立場であることをあらわす。
②相手の動作・作用によってめいわくを受けることをあらわす。
③しようと思わなくても、しぜんにそうなることをあらわす。
④できる意味をあらわす。
⑤尊敬をあらわす。
(三省堂『国語辞典』第5版)
ひとつの言葉(ここでは「(ら)れる」)に複数の意味があるとき、何らかの関連性があるのではないかと思います。
そして、飛躍しますが、「(ら)れる」と、コーチングとの関係も考えると興味深い。
題して「『(ら)れる』とコーチング」をご紹介します。
まだ、まとまってはいませんが…
まずは先述の『国語辞典』での用例を見てみましょう。
【受身】簡易な国語辞典であり、文法辞典ではないので文法的な説明の詳細はありませんが、「(ら)れる」のそれぞれの意味について上記のような用例が挙げられていました。それぞれの用例をもとに、詳細を見てみましょう。
・「蚊にさされる」
・「活発な論議が行われる(受身の意味は強くない)」
【被害】
・「紛失されてこまった」
【自発】
・「思い出される」
【可能】
・「行かれるかもしれない」
(ふつうは、可能動詞を使って「行ける」「歩ける」などのように言う)
【尊敬】
・「よく知っておられる」
(俗に、上一段・下一段活用の動詞につけて「見れる」「出れる」などと言う)
(最初に断っておきますが、文法談義をすることが目的ではないので、細かな点は省きます。)
■受身の「(ら)れる」
「蚊にさされる」と言う場合、「さす(刺す)」という動作をした人・モノは「蚊」です。「蚊」が、例えば「私」を、「刺す」。このときの「蚊」をここでは「動作主」と呼びます。「刺す」という行為をした動作主は「蚊」。そして、例えば刺されたのが「私」だとすれば、この「私」を刺された「対象」と呼びます。
「(ら)れる」が受身の意味で用いられるとき、一般的に動作主は助詞「に」を伴って表れます。対象は助詞「が」(あるいは「は」)を伴います。受身を使わないもとの文と対比して挙げると、
蚊は私を刺した。です。
私は蚊に刺された。
前者は通常の受身を用いない文で、動作主「蚊」を主語、対象「私」を目的語とした文。後者は受身文で、対象「私」を主語として、動作主「蚊」を助詞「に」をつけて表した文です。
もう一つの用例「活発な論議が行われる」も見てみると、
私たちは活発な論議を行った。「行う」という動作主が省かれているため、ここでは「私たち」を補足しましたが、通常の文(受身でない文)では目的語であった対象「活発な論議」が、受身文では主語として現れます。
活発な論議が行われた。
文の構成要素のうち、対象に焦点をあてた表現で、そのときの動作主はわきに置かれます。
■被害の「(ら)れる」
受身の例で用いた「蚊にさされる」も被害ではないか、とも考えられますが、ここでの被害はいわば間接的な被害の意味で用いて、文法的にも違いがあります。用例での「紛失されてこまった」から考えてみましょう。この用例でもいろいろなものが省略されているため、適当に補って「私は友達にカギを紛失されて困った」とすると、「紛失した(する)」という行為をした動作主は「友達」、行為の対象は「カギ」。
「私」というのは主語ではありますが、「紛失する」の動作主でもなければ、対象でもありません。「友達がカギを紛失する」という行為・状況によって「こまった」という被害を受けています。直接的動作・作用を受けたわけではなく、「間接的」と言ったのはそのためです。
ここでは、文の構成要素として被害者(ここでは「私」)が追加されています。
■自発の「(ら)れる」
「思い出される」だけではあまりわからないので、文章として例示して、「この写真を見ると、そのときの情景が思い出される」で考えてみましょう。
このとき、「思い出す」という行為(と呼べるかは微妙ですが)をするのは、「私」が妥当でしょう。そして「思い出す」対象が「そのときの情景」です。「私はそのときの情景を思い出す」とも言えますね。
ここでは、「そのときの情景」という対象が、助詞「が」を伴って主語となっています。
文の構成要素としては、動作主(?)がわきに置かれています。
■可能の「(ら)れる」
用例の「行かれるかもしれない」は、「行くことができるかもしれない」という意味ですが、あまり使いませんね。用例に沿っていうならば、「行けるかもしれない」と「行ける」という可能動詞を使って表現することの方が多いと思います。
ここでは、「行く」という行為の動作主として、例えば「私」を補うことができます。「行く」という行為は助詞「を」を伴って対象を表わすことはなくはない(例えば「街道を行く」などと言えます。)ので、「を」を伴う他動詞で用例を考えると、「食べる」「見る」などが挙げられます。「食べられる(食べることができる)」「見られる(見ることができる)」は、ら抜き言葉として「食べれる」「見れる」と表現する方が一般的になりつつありますが。
余談ですが、「ら抜き言葉」は可能動詞の生成過程と捉えることができます。
「食べられる」を可能の意味で用いた文として例示すると、「ご飯がたくさん食べられる」あるいは「ご飯をたくさん食べられる」のように、「食べる」対象(ここでは「ご飯」)は助詞「が」、助詞「を」どちらを使っても表現できます。人によって揺らぎはあるでしょうが。
また、自発との関係も否定できません。「しようと思わなくても自然とそうなる」という意味としても取ることができます。
■尊敬の「(ら)れる」
「よく知っておられる」は、主語が動作主、目的語が対象といったことに変化はありません。「先生は物事をよく知っておられる」というと、「知っている」の動作主(「知っている」が動作かどうかはさておき)は「先生」、対象は「物事」。「先生はよく本を読まれる」なども尊敬としての用法ですね。
これを「*本が(先生に)読まれる」のように、対象を主語(助詞「が」「は」を伴う)として表現してしまうと、尊敬の意味はなくなります。
以上をまとめると、受身・被害・自発・可能・尊敬の文の構成要素を見たとき、特長は以下のようになります。
【受身】元の動詞の構成要素に変化あり。動作主がわきに置かれる。
【被害】元の動詞の構成要素に変化あり。被害の受け手が発生する。
【自発】元の動詞の構成要素に変化あり。動作主がわきに置かれる。
【可能】元の動詞の構成要素に変化があったり、なかったり。
【尊敬】元の動詞の構成要素に変化なし。
少し、【尊敬】が毛色が違うようにも思えますが、なんとなく並べることが出来そうですね。
【被害】-【受身】-【自発】-【可能】-【尊敬】
次回(いつになるかは未定…)は、「(ら)れる」とコーチングとの共通点を考えてみたいと思います。
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