有子曰く、信義に近ければ、言復む可し。
恭礼に近ければ、恥辱に遠ざかる。
因ること其の親を失わざれば、亦宗ぶ可し。
加地伸行氏の『論語』での訳は、
有先生の教え。約束(信)の内容が[仮に良くないとしても、]道義(義)に反するほどのものでないならば、言ったとおりにしてよい。相手への丁寧さ(恭)が[仮に馬鹿丁寧であっても、]作法に反するほどのものでなければ、丁寧にしても恥をかくわけではない。他者への依頼が[仮に度を越していたとしても、]親しむべきありかたにそうはずれていないならば、その依頼する相手への尊敬心を持ち続け、お願いせよ。
一方、斉藤孝氏の『現代語訳 論語』では、
有子がいった。
「約束を守る<信>の心が<義>の精神に沿っていれば、約束を履行できる。丁重に人に接する<恭>の心は、<礼>に沿えば人から軽んじられにくい。人に頼るときは、親しむべき人をまちがえなければ、うまくいく。」
最後の一文の解釈が分かれているようです。
加地伸行氏の『論語』には、次のような脚注があります。
「因」を姻族(配偶者側の一族)、「親」を親族(宗族。自分側の一族)とし、宗族は助け頼りあうが、姻族といえどもしたしむべきありかたを失わないかぎり、助け頼りあうとする(鄭玄)、あるいは「可宗」を「そういうりっぱな人は<宗>一族の長たるべきである」とする『逢原』説もある。ともあります。
(注:「鄭玄」…鄭玄『論語鄭氏注』、「逢原」…中井履軒『論語逢原』)
以下、漢文や論語の知識がない、私の勝手な考えの記録です…。
以下に原文を記載します(加地伸行『論語』より)。最初の「有子曰」は省いています。
信近於義、言可復也。
恭近於禮、遠恥辱也。
因不失其親、亦可宗也。
1文目と2文目が対句のようになっているのがわかります。
そして、3つ目の文の最初の「因」。婚姻・姻族の「姻」かもしれませんが、原因の「因」のようにも見えます。
なんとなく、「三段論法」を思い出しました。
つまり、「『信』が『義』に近いならば、言ったことをするべきだ。『恭』が『礼』に近いならば、恥辱からは遠ざかる。したがって~」という形式ではないかと思ったわけです。
まずは、「因」にそのような使われ方があるかどうかを確認してみました。
『論語』内で「因」という漢字が使われていないか確認してみたところ、「堯曰第二十・2」に「因」の文字を見つけました。
【原文】
~(略)~
子張曰、何謂惠而不費。
子曰、因民之所利、而利之。
~(略)~
【書き下し文】
~(略)~
子張曰く、何をか恵にして費やさずと謂う、と。
子曰く、民の利する所に因りて、之を利す。
~(略)~
ここでは前置詞的に使われていて、接続詞的な使い方ではなさそうですね…。
ついでに「宗」も『論語』内でどのような使われ方をしているのかを確認すると、「宗廟」「高宗」「宗族」という語句として使われていました。
いずれも目視なので、見落としがあるかもしれません…。
(Web上でテキストとしてあるかもしれませんので、今度探してみよう…)
やはり、3つの文が並置されていると考えた方がいいのかもしれません。
「信」が「義」に近ければ、言ったことはやるべきだ。
「恭」が「礼」に近ければ、恥辱からは遠ざかる。
「因」が、その「親」を失わなければ、尊ぶべきだ。
まだまだ読み込みが足りません…。
参考になったぜ!
返信削除