通訳には「逐次通訳」と「同時通訳」という2種類の形式があるそうです。
例えば日本語の話者の話を通訳者が英語に訳す場合でいうと、話者が日本語で区切りがいいところまで話し、その話を通訳者が英語で話し、また話者が日本語で話し、通訳者が英語で話し、と交替交替に通訳をしていくやり方が「逐次通訳」。
「同時通訳」というのは、日本語の話者が話しているそばから、英語の通訳者が話をしていくやり方です。
「同時通訳」のことを略して「同通(どうつう)」。
「逐次通訳」と「同時通訳」は、どちらも異なる言語を訳すということで、その2つ(以上)の言語を知っていなければなりません。
「逐次通訳」も「同時通訳」も、どちらも日本語しか知らない私にとっては難しいことですが、どちらかというと、「同時通訳」の方が難しいように感じます。
その理由は、「逐次通訳」ならば、一塊の文章をいったんまとめて異なる言語に言いかえて話す、ということができそうですが、「同時通訳」は、その話者が次に言わんとすることを予測して訳していかなければならないと感じるからです。
私にとって一番身近な言語は日本語で、その次は学校で習ったことのある英語となるので、日本語と英語のことでしか思い浮かべていないからかもしれません。
例えば日本語の場合は動詞が文の一番最後に来ます。
しかし、英語は主語の後にすぐ動詞が来ます。
日本語を英語に同時通訳をする場合、日本語では動詞がまだ現れていないときに、英語では動詞を発していないと文にならないのではないかと感じるためです。
日本語話者の話をよく聞き、このようなことを話すだろうと当たりをつけ、いわば先取りして英語で話すことをしなければならないのではないか、だから難しいと感じます。
「同時」通訳といっても実際は多少のタイムラグがあるとは思いますが、これがもし仮に本当に同時であるならば、つまり、日本語で話し始めると同時に英語でも話し始め、日本語で話し終わると同時に英語も話し終わるということができれば、その2人の話者は異なる言語で話しているとはいえ、一心同体ではないか、つまりは話聞一如の状態ではないかと思います。
(追記)
【同時通訳のわもん流定義(パヴィ・ ヴァージョン)】
同時通訳者【以下通訳者】が完全に離我すると、
通訳者は話者と非言語の場で完全につながり、話者の思念とひとつになります。
地下水脈を通して話者の思念/想いが通訳者を満たし、通訳者から言葉として表れます。
その瞬間、通訳者にとって話者は【あなたはもうひとりの私】であり、
それは離我による絶対的存在との融合であり、完全なる至高体験です。
聞けば叶う〜わもん入門
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