吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。
『論語』の中で有名な言葉のひとつです。
孔子が晩年に自分の振り返った言葉であるとも言われています。
この章句より、年齢を表わす言葉が生まれています。
15歳を「志学」、30歳を「而立」、40歳を「不惑」、50歳を「知命」、60歳を「耳順」、70歳を「従心」。
先日、「聴和坐」に参加したことなどから、『論語』とわもんについて考えています。
『論語』をわもん的に解釈してみるとどうか、というようなことです。
今までの「わもんな言葉」は、わもんでの言葉や考え方をもととして、本の引用等、別の言葉で書いてきたのに対して、今回は逆。
別の言葉をわもん的に解釈してみようという試みです。
学に志し、自立し、迷わなくなり、天命を知り、人のことばを聞けるようになり、そして心のおもむくままに実行しても道を踏み外すことはなくなった。
年齢は別として、わもんとの関連を考えてみると、聞き方の過程のようにも聞こえました。
生き方と聞き方。
共通項は多々あるかと思います。
孔子が学問に志したように、この人の話を聞くと決める。
そして話し手の話に一点集中する。
惑わず迷わず、心の湖面を揺らさず、完全沈黙。
その人の命を聞くことで、そうしてやっと、その人の話が本当に聞ける。
そうなると自分が思うこと、なすことすべてが、話し手につながっていく。
このような境地を「聴和」と呼んでも差支えがなさそうな気がします。
論語 (岩波文庫)
わもん -聞けば叶う