右手と左手を打ち合わせて拍手するとき、どちらが仕掛けて、どちらが応じているのかを私たちは言うことができない。というのも、両手は同一の共身体から枝分かれして、右手と左手は同じ時間を生きているからである。そこに先後はない。「石火の機」「間髪を容れず」を説明するためのひとつの例として挙げられている文章です。
そこで、思考が飛びます。
ならば、「ハイタッチ」はどうだろう?
ハイタッチは、自分の手と相手の手を打ち合わせて「パンッ」と音がします。
タイミングが合えばきれいな音が鳴り、気持ちがいいものです。
一方、タイミングが合わないと、相手の手を叩いたように、あるいは叩かれたようになってしまいます。
ということは、ハイタッチでも、最初はどちらかが仕掛けてということはあるかもしれませんが、「パンッ」ときれいな音が出るその瞬間には、どちらが仕掛けて、どちらが応じているのかを言うことができない。
ならば、ハイタッチがきれいにできたとき、その瞬間は、両者は同一の共身体から枝分かれして、同じ時間を生きているとも言えそうです。
そこで、思考が飛びます。
「ハイタッチわもん」はこれか!
話し手と聞き手がつながりあったとき、話聞一如の状態になったとき、きっと、きれいな音が出るのでしょう。
どちらが話し手、どちらが聞き手であるのでなく、同一の共身体から枝分かれして同じ時間を生きているのではないかと思います。
その先は、隻手の声も聞こえるのかもしれません。
修業論 (光文社新書)
聞けば叶う〜わもん入門
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