本来3回コースで行われる「未来への羅針盤~源泉わもん~」を1日で行う集中講座です。
最近読んでいる『孟子』の中に、「原泉(源泉)」の言葉があります。
徐子曰く、仲尼亟水を称して曰く、水なるかな、水なるかなと。何をか水に取れる。孟子曰く、原ある泉は混混として、昼夜を舎かず。科を盈たして後に進み、四海に放る。本ある者は是の如し。是れ之を取れるのみ。苟も本なから為めば、七八月の間、雨集りて溝澮皆盈つるも、その涸るるや、立ちて待つべきなり。故に声聞情に過ぐるは、君子之を恥ず。『孟子』離婁編の言葉です。
意訳します。
孟子の門人の徐子が孟子に尋ねます。
「孔子はたびたび水を称えて『水なるかな、水なるかな』といわれましたが、水にどんな取り柄があるというのでしょうか?」
孟子の回答は、
「水源ある水は、混混として夜昼となく休みなく流れている。窪地があればそれをいっぱいに満たしてから先へ進んでいき、海へとたどりつく。本源あるものはこのようなものだ。この点を『水なるかな』と称えたのだ。もし本源がなかったら、7月・8月の間は雨が降るので田圃の溝は水が満ちているが、雨が降らず水が涸れてしまうとまた雨を待つしかない。だから、実情を伴わない名声は、君子は恥としている」
というもの。
溝があっても水がなければ用をなしません。
いくら知識やスキルがあろうとも、そこに流れる水がなければ無用となってしまいます。
名声があろうとも、実情がなければそのうち涸れてしまうでしょう。
自分の「原ある泉」、つまり「源泉」はどこにあるのか?
そして源泉からの水はどこで満たされ、どこへ行くのか?
川をさかのぼりつつ、その源泉を見つけにいこう。
それが、「源泉わもん」です。
同じく『孟子』の「告子編」には以下の問答があります。
告子が孟子の性善説に反論します。
「人の本性というものは、流れる水のようなものだ。これを堰き止めて東に切って落とせば東に流れるし、西に切って落とせば西に流れる。人の本性も人為でどのようにもなるものだ。水がもともと東に流れるか西に流れるか決まっていないように、人の本性ももともと善や不善に決まってはいない」
それに対する孟子のこたえは、
「東西に流れるとは決まっていないが、高いところから低いところに流れるのは決まっている。その水の流れも堰き止めて逆流させれば高いところへ流すことはできるかもしれないが、それは本性とは言い難く、外からの圧力がそうさせたのであろう」
源泉から湧き出た水が堰き止められてはいないでしょうか?
源泉から自然に流れ、窪地に溜まり、溢れまた流れていく。
水の溜るところが「強み」ではないかと思うのです。
堰き止められている場所や、水の溜まった窪地をたどりつつ、「源泉」へ。
話を聞きながら、音を頼りに、本音へ。
それを羅針盤として命を使ってみてはいかがでしょうか。
21Smiles Garden
孟子〈上〉 (岩波文庫)
孟子〈下〉 (岩波文庫)
わもん -聞けば叶う
静かにたたずむ心の湖面。しかし、その豊かな水はどこから来るのか? その源を探る「源泉わもん」
— さのともさんさん (@sanotomo3) 2012年4月19日