「同行二人(どうぎょうににん)」というのは、お遍路さんは一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けている、つまり、お遍路さんにはいつも弘法大師(空海)さんがそばについて一緒に歩いていることを表します。
マラソンでいえば「伴走」のようなものです。
この「伴走」もなかなか難しい。
ランナーより早くとも遅くともなく、ランナーに合わせて、ランナーに寄り添って走らなければなりません。
書籍『わもん』に「『同行二人』の心で聞く」という章があります。
その章のなかに、伴走を思い起こさせる文章があります。
「話し手の心に寄りそう気持ちで聞く」ことも、同行二人に似ています。話し手が思いをめぐらせる速度にあわせ、ときにはふたりがならび、ときには聞き手が体ひとつ、うしろから、話し手の心の底へ、どこまでももぐっていくのです。そして、その直後、
ただ、イメージとしてはわかりますが、簡単にできることではありません。とも。
「同行二人」の心で聞くことはなかなか難しい。
この難しさは、兼好法師も『徒然草』に書いています。
『徒然草』の第十二段には、
同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向かゐたらんは、たゞひとりある心地やせん。とあります。
同じ心であろう人とじっくりと話をして、趣あることも、世の中のはかないことも、うらおもてなく言い合えることこそ、うれしいことであろうに、そのような人はめったにおらず、少しも違わないようにと向かい合っているような場合は、ただ独りぼっちでいるような気持ちがする。
ランナーが独りで走っているような気持ちになるなら、伴走の意味がありません。
ともに走る。
同行二人で走るのが伴走です。
『わもん』の別の章「『あるがままの自分』で聞く」には、伴走のひとつの例が載っています。
Zさんの話を聞いていて、Uさんは「うらやましい」と思ってしまいました。
しかし、Uさんは「聞き手の感情を出してはいけない。口に出してはいけない」と思い、気持ちをおさえました。
そこで、
横で聞いていたわたしはUさんに「今は素直に自分の気持ちを伝えてみてはどうですか」と提案しました。Uさんは「うらやましいです」と話しました。
「うらやましいです」という言葉を聞いてから以降は、Zさんは表面的な話ではなく、気を悪くすることなく深い部分まで話した、ということです。
聞き手が「つゆ違はざらん」と力んでしまうと、話し手が「たゞひとりある心地」になってしまいます。
聞き手が「あるがままの自分」を受けいれ、力まず、自然体で、しかし真剣に、聞きつづけることによって、話し手を絶対尊敬できるようにもなっていくのです。
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