2019/05/25

洒落とお洒落

漱石の『草枕』に、他の人からはあまり聞いたり読んだりしたことがないところで、好きな場面がある。語り手である余(画工)と那美さんが会話する場面である。新仮名遣いで引用する。
「こう云ふ静かな所が、却って気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ち様一つでどうでもなります。蚤の国が厭になって、蚊の国へ引越しちゃ、何にもなりません」
「蚤も蚊も居ない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出して頂戴」と女は詰め寄せる。
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとつて、女が馬へ乗って、山桜を見て居る心持ち――無論咄嗟の筆使いだから、画にはならない。只心持ち丈をさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入りなさい。蚤も蚊も居ません」と鼻の前へ突き付けた。驚くか、恥ずかしがるか、此様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、一寸景色を伺うと
「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、丸で蟹ね」と云って退けた。余は
「わはははは」と笑う。
――夏目漱石『草枕』
お洒落だな、と思う。洒落だな、とも思う。

ここのやり取りで、一休さんの頓知話を思い出す(アニメの方)。「屏風に描いてある虎を捕まえてみよ」と言われ、「わかりました。では、その虎をこちらへ出してください」と返した話である。『草枕』の方では、那美さんが「ここへ出して御覧なさい」と詰め寄ったあと、画工は画を書いて「この中へ御這入りなさい」と、さらに頓知をきかせている。ひねられている。

この場面の注には一休さんではなく、『無門関』の「達磨安心」の話が載っていた。面壁している達磨(禅宗の祖)に慧可(二祖)が「安心させてほしい」とお願いしたところ、「安心させてやるから心を出してみよ」と応じた話である。一休さんも禅僧であるから、アニメの一休さんもここから作られたと思う(もちろん、一休宗純がモデルとなっているので一休宗純の言動から作られてはいるのだろうが、一休宗純も「達磨安心」の公案は知っていただろう)。

さらにこの『草枕』の場面は、『草枕』冒頭で山路を登りながら画工が考えていたことも思い出させてくれる。冒頭で「智に働けば角が立つ」云々、そして「どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれ、画が出来る」と考えていた。そのとき考えていた中に、以下の部分がある。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。
「人でなし」というのは通常、人でないような人、人情がないような人を指す。人でない、といいながら、人である。引用した部分の「人でなしの国」は、「人でない」ほうに主眼が置かれている。引用内の語句でいうと「神」や「鬼」である。

「蚤の国」「蚊の国」は、人ではないものの国である。人でなしの国である。言葉の音から「黄泉の国」「彼(か)の国」も思い起こされる。また、「神(かみ)」と「鬼(おに)」で「蟹(かに)」が出てきたとも考えられなくはない。いや、「蟹」は英語の「cancer(癌)」に通じるという理由からかもしれない。

もちろん、画工が書いた画が横長で、横にしか動けない「蟹」が出てきたのだろう。しかし、この会話の少し前には「それじゃ幅が利きます」というような科白があったり、後にもまた「蚤の国、蚊の国」や「蟹」が出てきたりしているので、意識的に言葉を選んで書いていると思う。そして、洒落をお洒落に使っている印象というのが、この場面でよく現れているというのが、この場面が好きな理由である。

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