2019/05/23

漱石の「断片」がおもしろい。

漱石の「断片」がおもしろい。

たとえば、いま適当にページを開いて、「断片35E」をみると、最初に次のようなものが記されている。(読みやすいように、カタカナをひらがなに変えたり、句読点やカギ括弧を補ったりしている。)
△一人曰く「円なり」。一人曰く「方なり」。固く執って下らず。第三者に行って之を質す。第三者曰く「どうでもよい」。二人呆然たり。一人は円のみを知る。一人は方のみを知る。故に己れを是として他を非とす。第三者は円を知りまた方を知る。故にどうでもよいと云う。而して二人は第三者を以て愚となす。
群盲象を撫でるようなことが記されている。皮肉めいた(?)最後がおもしろい。

読んでいるのは岩波書店から刊行中の漱石全集第十九巻『日記・断片(上)』である。漱石の日記や読書メモ、構想メモなどを集めたもので、思索なども書かれている。漱石の小説に使われているものも多い。上記の「断片35E」の注をみると、この断片は小説『野分』に使われているところが多いらしいが、『野分』を読んだことがないので上記部分が実際に使われているのかどうかは知らない。

『日記・断片』を読んでいると、もし漱石がツイッターとかブログをしていたら、こんな感じになるかもしれないと思った。なかには炎上しそうなことも書いてあるので、もし漱石の時代にツイッターとかブログがあったとしても、しなかったかもしれない。

現在少しずつ読んでいる岩波書店版の漱石全集での『日記・断片(上)』は、できるだけ漱石が書いたそのままを載せる方針であるため、少し読みづらいところが難点である。たとえば、冒頭の引用箇所は次のように記載されている。(全集以外の本ではどんな表記をされているのだろうか。)
△一人曰く円なり。一人曰く方なり。固く執つて下らず。第三者ニ行ツテ之ヲ質ス。第三者曰くどうでもよい。二人呆然タリ。一人ハ円ノミヲ知ル。一人ハ方ノミヲ知ル。故ニ己レヲ是トシテ他ヲ非トス。第三者ハ円ヲ知リ又方ヲ知ル。故ニドウデモヨイト云フ。而シテ二人ハ第三者ヲ以テ愚トナス
また、句読点がないものもしばしばある。初期の頃に多いようだ(すべてを読んでいるわけではないので感覚的な感想)。たとえば「断片19C(2)」は次のように書かれている。
 月並
或日本ノ政治家ガ欧洲ヲ漫遊シテ伊太利ニ行キ或る宿ニトマル宿屋ノ前ニ伊太利名士ノ彫像ガアツタトスルト此政治家ガ日本ヘ消息ヲシテ此像ヲ引合に出して曰ク日夕相対シテ古今知己の感なくんばあらずと申した余はかゝる月並を云ふ気にならない。月並とは何かと尋ねる人があるかも知れないから一寸説明をする月並とは(年は二八かにくからぬ)と(云はず語らず物思ひ)の間に寐かろんで居て(此日ヤ天気晴朗)と来ると必ず(一瓢を携へて滝の川に遊ぶ)連中を云フ
文章の切れ目に句読点がない。全く使っていないわけでもない。書き下し文のようにカタカナで書いているかと思えば、ひらがなになったり、またカタカナを使ったりする。括弧の使い方も、自分だったらこんな風には使わないだろう。ここでの引用では例がないが、英語が混ざっていたり、メモすべてが英語だったりするところもある(英語の断片に当たったときは、注にある翻訳で済ませている)。しかしこのような文章を見て、普段の自分が気づいていない書き方や、無意識のルールに気づかされることも多い。漱石には書き方のルールがあったのだろうかとも想像する。人に読ませるものではなかったと思うので、漱石はただ書いていただけだとも思う。ならば、ツイッターやブログはしないだろう。漱石の作品をしっかりと読んでいれば「この断片はあの小説のあそこの部分だ」というような楽しみも増えるだろう。

いまは『草枕』の画工よろしく、ページを適当にめくり適当に読んでいる。

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