「探偵は尋ねた。あまりにも、警部の表情が面白かったからだ」
躰のいろいろな部分が、なかったのです。
「警部は言った。自分の顔が面白いなどとはまったく気づいていない」
このような文章で、森博嗣『実験的経験』は、はじまっている。地の文を括弧の中に入れて、会話文を括弧の外に出すという「独自のルール」である。しかし、このルールでずっと書かれているわけではない。」あ、もしかして、先生……「
」何?「
」私、わかっちゃいましたよ「
今度は鍵括弧が逆である。そして、それを「こともなげ」に言ってのける。いや、さきほどまでと同じです。たまたま地の文がないと変に感じるだけです。この場合は、語らない地の文を括弧で括っているだけのことで、空集合という集合みたいなものです。
∅
世の中にはルールがある。明文化されているものもあれば、明文化されていないものもある。ルールという言葉が強すぎるとしたら、パターンと言ってもいい。常識とか習慣、癖などと言ってもいい。意識しているものもあれば、無意識に従っているものもある。
「変だな」「おかしい」「違和感を感じる」と思うところで、なんらかのルールの存在に気づく。「違和感」だけで「感じる」という意味が含まれているのに「違和感を感じる」と書くのはおかしいのではないか。
「おかしい、という言葉には、変だという意味の他に、面白いという意味もありますね」
いきなり、何ですか?
「おかしい、というところには、怪しいところ、そして、面白いところがあります。おかしいを漢字で書くと、可笑しいと書きますね。おかしなところには、どこか、ルールを逸脱しているというか、常識では考えられないというか。そこは、遊び、余裕のあるところです」
車のハンドルの遊びみたいなものですね。
「そうそう。グレーゾーンとも言えます。白でもなく、黒でもない、白黒つかない灰色のところです」
白黒で思い出しましたが、余白とか空白はなんで白なんですかね。意味としてはグレーゾーンに近いと思いますが。
「さあ。無と有の間ですかね。あるいは、有限と微小の間」
間は「かん」と読んだ方がいいですかね?
「パンとは読めないですね」
(空白)
突飛なものは大衆には望まれていません。それなのに、突飛なものを見せたい、というのが創作の基本的衝動です。このギャップを埋めるために歩み寄り、ぎりぎりの妥協の線として提示することも、創作者の使命の一つであって、これは、デザイン、アートを問わず、常に、そして暗黙のうちに掲げられる、ほとんど唯一の共通テーマであると思われます。逆にいえば、この挑戦を避けること、忘れることは、すなわち創作の堕落であり、惰性への隷属であり、芸術から生産への没落、「求められるものを与えるのだ」という偽善としての背信といえるものでしょう。
「この上に書いているところは引用ですよね。もとに戻したのですね」
「そうですね。引用は、引用符をつけたり、段を下げてなされることが多いです」
「引用で思い出しましたが、陰陽は、陰と陽という順番ですね。白黒とは逆ですね」
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