5月の連休中、愛媛の実家に帰った。現在は名古屋に住んでおり、名古屋から新幹線で岡山まで。岡山で特急に乗り換え、松山・宇和島へと移動する。乗り換えを含めると6時間くらいになる。
帰省のお供として選んだ本は、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』。恩田さんの作品は、文庫本が出たものを読むようにしている。以前は文庫が出たものすべてを読んでやろうと思っていたのだが、読みきれず積読本が多くなってしまったので、最近は買ったり買わなかったりしていた。『蜜蜂と遠雷』は、承知の通り「直木賞」と「本屋大賞」のW受賞で話題となった本で、読んでみたいと思ったが文庫本が出るのを待っていた本だった。2019年4月に文庫本が出て買ったが、しばらくそのままになっていた。帰省の行き帰りで読むのにちょうどいいかもしれないと思い、この2冊(上巻・下巻)を持って行った。
結果として、行き(帰省の行き)の車内と実家に着いたその夜、そして翌日で一気に読んでしまった。ピアノやクラシック音楽について明るくはないが、クラシックを聞いてみたい、コンクールの観戦もおもしろそうだとも思った。書かれている曲はどれも聞いたことはない(ひょっとするとタイトルを知らないだけで聞いたことはある曲もあるかもしれない)が、音楽が言葉になっていると思った。そして、恩田さんの作家としての創作活動の姿勢が書かれているような気がした。また、言語の問題が書かれているようにも思った。このあたりはまだまとまっていないので、再読する本のひとつになった。
『蜜蜂と遠雷』を一気に読んでしまったので、連休中と帰り(帰省の帰り)に読む本がなくなってしまった。『蜜蜂と遠雷』を再読するという手もあるが、再読はゆっくりちょこちょこと読んでいくのがいいかと思う。
連休中に本屋に行った。森田真生さんが編集した岡潔さんの『数学する人生』の文庫本を見つけ、これにしようと購入した。
数ヶ月前に、(これも積読本であった)森田真生さんの『数学する身体』を読んだところだった。大まかな数学の歴史と数学の身体性について、森田さん自身の経験を踏まえて書かれていた本で、抽象化を極めていくと思っていた数学に新しい視点(失われがちになっていた視点)を持たせてくれた。数学については、少なくともクラシック音楽よりは知っている。とは言っても専門的なところは知らない。ただ、ゲーデルの不完全性定理にはずっと興味を持っているので、その周辺の事柄についてはある程度の知識があった。『数学する身体』での数学史でヒルベルトが出てきた後、いよいよゲーデル登場かと思いきや、チューリングが出てきた。そしてその後、岡潔である。歴史はひとつの線でできているわけではないが、チューリングと岡潔の組み合わせがおもしろい。
岡潔さんについては名前しか知らなかった。数学的業績はもちろん、数学以外の著作があることも知らなかった。正直に言うと、小林秀雄さんとの対談本である『人間の建設』を持ってはいるが、例によって積読本である(積読本がいくつあるんだ……)。森田さんの『数学する身体』で、岡潔さんに興味を持った。
興味を持ったものの、岡潔さんについて、手つかずのままだった。積読本は、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』をはじめ、まだまだたくさんある。そのうち『人間の建設』に手をつけようと思っていたところ、ゴールデンウィーク中、帰省先の本屋で『数学する人生』に出会ってしまった。そして帰りの車内でのお供となる。(ちなみに電車と書かずに車内と書くのは、宇和島・松山間では列車がまだ電化されていないところがあるため。)
岡潔さんの『数学する人生』を読んで、また追いかけるべき人が増えたと思った。もちろん岡潔さんのことである。数学的業績については難しいだろうが、ものの見方・考え方については外せないような気がする。何をどのように表現しているのか。現在の読書の対象として夏目漱石の諸作品に何かあると思って読んでいるが、岡潔さんにはそこに共通するものがある。
そして先日、本屋に行ったとき、岡潔さんの『春宵十話』『春風夏雨』を見つけた。
何という原理(?)か忘れてしまったが、たとえば「赤い色」と意識して一日を過ごすと、赤い色のものが目に飛び込みやすくなるという。見たいものが見えるということだろう。よく本屋に行くのは、自分がどのような本に魅かれるのかを知りたいためである。自分自身、未だに何をどうしたいのかがわかっておらず、このブログ記事も何となく「書いておいたほうがよさそうだ」と思い書きはじめたため、脈絡のないものとなってしまった感はあるが、一旦書いておくと次につながるような気がしている。
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