2012/03/06

声なき声を聞く

引き続き、『五輪書』より。

「水の巻」に「兵法の目付といふ事」という項があります。その中には有名な「観の目」「見の目」のことが書かれています。
目の付けやうは、大きに広く付くる目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀をしり、聊かも敵の太刀を見ずといふ事、兵法の大事也。

「観の目」を強くして、「見の目」を弱くする。

遠いところを近くに、近いところを遠く見る。

敵の太刀の動きを知るが、敵の動きには惑わされない。


何となく、わかります。


『五輪書』の中では、「観の目」とはどんな目なのか、「見の目」とはどんな目なのか、ということは書かれていませんが、現在私が読んでいる鎌田茂雄(全訳注)『五輪書』(講談社学術文庫)では、「観」「見」を次のように言っています。
「見」というのは目もとで見ることだというのであり、「観」というのは心で観ることで、仏教の言葉でいえば観智のことであるというのである。
また、柳生流の『兵法家伝書』の「活人剣」の言葉も引用されていました。
目に見るるを見と言ひ、心に見るを観と言ふ。


これらのことは、単に視覚のことだけでなく、聴覚にも及ぶと考えます。


『五輪書』では「目付のこと」として書かれているので、視覚的な「見る」や「見える」という表現になっていますが、「聞く」「聴く」にも通じます。

「聞の耳」「聴の耳」と表現すると、わかりにくいですかね…。


私は、言葉というのは、器とかパッケージのようなものだと思っています。

器を見て中身を想像することはできますが、実際に何が入っているかはすぐにはわかりません。

濃い色の液体の入ったコーヒーカップを出されて、飲んでみたら麦茶だった、ということもありえます。

言葉も、耳で聞くだけではなく、味わうことが大切かと。


書籍『わもん』には、「わもん聴覚」という言葉が載っています。
「わもん聴覚」には、もちろん耳から得られる感覚もふくまれます。しかしそれにとどまらず、目で、肌で、心で、その他あらゆる経路からキャッチする感覚をトータルしたものが、「わもん聴覚」です。

心のなかの感覚的な耳で聞く。感じる。味わう。

以心伝心のコミュニケーションに必要なことだと思います。



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