2020/08/23

鵜と鷺で一羽となるや取合せ

復本一郎『俳句実践講義』に、俳句における必須の「技巧」として「取合せ」が取り上げられている。許六編『俳諧問答』中の「自得発明弁」などの俳論資料から説明されており、具体的でわかりやすい。正岡子規の『俳諧大要』にも「取合せ」についての言及がある。

子規は、暁台の「時鳥鳴くや蓴菜の薄加減」という句を例にして「取合せ」に言及している。

蓴菜は俗にいふじゆんさいにして此処にてはぬなはと読む。薄加減はじゆん菜の料理のことにして塩の利かぬようにすることならん。さて時鳥と蓴菜との関係は如何にといふに、関係といふほどのものなくただ時候の取り合せと見て可なり。必ずしも蓴菜を喰ひをる時に時鳥の啼き過ぎたる者とするにも及ばず。ただ蓴菜の薄加減に出来し時と時鳥の啼く時とほぼ同じ時候なるを以て、この二物によりこの時候を現はしたるなり。しかも二物とも夏にして時鳥の音の清らかなる蓴菜の味の澹泊なる処、能く夏の始の清涼なる候を想像せしむるに足る。これらの句は取り合せの巧拙によりてほぼその句の品格を定む。

時鳥(ほととぎす)と蓴菜(「ぬなわ」と読む。じゅん菜のこと)は基本的には関係がないが、時鳥が鳴く時期と、蓴菜を薄味の塩加減で料理するような時期が同じころで、ともに夏の清涼感を想像することができる、と言っている。このような俳句の技法を「取合せ」という。

時鳥は、古来より歌に詠まれ、イメージが固定化されているところがあるが、「取合せ」によっては新たなイメージを呼び起こすことができ、陳腐な表現を避け、オリジナリティを発揮することができる。

『俳句実践講義』には、「取合せ」の注意事項も書かれていた。「決して二つの関係を説明してはいけない」ということで、二つの関係を句の中で説明してしまうと「理屈」の句になってしまうからである。

また、「取合せ」は、大変効果的な作句方法であるが「一つ間違えれば、独りよがりの作品になってしまいます」とも言う。よく言えばシュルレアリスム的俳句ということもできなくはなさそうだが、句を作った本人にしかわからないような俳句が「独りよがりの作品」ということであろう。

このブログ記事のタイトルは、独りよがりの作品に近い。

鵜と鷺はともに鳥の名であり、「取合せ」と掛けている。また「ウ」と「サギ」を合わせると「ウサギ」となり、兎の数え方は一羽、二羽である。一羽の鵜と一羽の鷺を合わせて一羽の兎となるのは、生命の神秘にも似て、アイデアの創出にも似ている。

「鵜」は夏の季語、「鷺」は手元の歳時記にはなかったが、「白鷺」「青鷺」は夏の季語となっていた。ちなみに「兎」は冬の季語であったので、句中にはいれなかった。

理屈、知識に訴え、言語の遊戯に属する独りよがりの句である(俳句とは言えない)。

そして、鵜と鷺で兎になるとか、兎の数え方であるなどは、柳瀬尚紀のエッセイより拝借したもので、私のオリジナルではない。私が考えたこととしてはそこに「取合せ」を取合せたのみで、誰でも思いつきそうなものである。

ただし、独りよがりの作品であっても、自分にとっては意味がある。


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