2020/08/21

天地も岩戸も開け時鳥

漱石の書簡集は、明治22年5月13日付正岡子規宛の書簡からはじまっている。「今日は大勢罷出失礼仕候然ば其砌り帰途山崎元修方へ立寄り大兄御病症幷びに療養方等委曲質問仕候処」云々と、いわゆる候文で書かれており、句読点もなく、珍文漢文で読みにくい。この手紙は漱石が子規を見舞った日に書かれたもので、簡単にいうと、「見舞いの帰りに主治医のもとを訪ねたが、どうもこの主治医はあてにならない。なので第一医院で再診を受け入院してはどうかしてはどうか」という内容である。当時の書き言葉は漢文調であるのが普通だったにせよ、「二豎の膏盲に入る」や「雨振らざるに牖戸を綢謬す」という故事や、「to live is the sole end of man!」との英文も見え、漱石の学識の高さがうかがえる。漱石このとき22歳。

漱石と子規は明治22年1月ごろから親しくなったといわれている。その年の5月9日、正岡子規は喀血する。漱石はそれを見舞い、そして先に述べた手紙を書いた。

正岡子規の「子規」という号は、この喀血からつけられている。この喀血により、子規はホトトギスの句を数十句詠んだ。ホトトギスは高い声で鋭く鳴き口の中が赤いので、鳴いて血を吐くといわれ、そして結核の代名詞にもなっていたからである。そして号を「子規」とした。ホトトギスの漢字はいくつもあるが、「子規」はそのひとつである。

おそらくは、子規はこのときに作った俳句を、見舞いに来た漱石にも見せた(聞かせた)のであろう。冒頭の漱石の手紙の末には、漱石が詠んだ二句の俳句がしたためられている。

帰ろふと泣かずに笑へ時鳥

聞こふとて誰も待たぬに時鳥

ホトトギスの故事に、次のようなものがある。

中国古蜀の杜宇は農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。望帝杜宇は、死ぬとホトトギスになり、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるために鳴くという。後に蜀が秦によって滅ぼされてしまった。そのことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」と鳴きながら血を吐いた、口の中が赤いのはそのためだ、といわれるようになったという(参考:Wikipedia「ホトトギス#故事」)。

ホトトギスの漢字がいくつもあることを先に述べたが、「杜宇」や「不如帰」などの漢字はこの故事が由来である。漱石が手紙に書いた一句目の俳句「帰ろふと泣かずに笑へ時鳥」には、この故事が踏まえられている。

そして、二句ともに子規への見舞い、励ましの句でもある。「鳴かせてみせよう」とか「鳴くまで待とう」とかいわれるホトトギスではあるが、誰も君の喀血なんか望んではいない、鳴くのではなく笑ってほしい、元気になってほしい。そんな漱石の子規に対する心情である。

これらの俳句を読んだとき、こんな風に俳句を作れたらいいな、と思った。

漱石の心遣いや博識に打たれたのはもちろんであるが、その心遣いや博識が、感情や知識が、俳句という十七音に凝縮しているところがすごいと思った。俳句の上手い下手はわからないけれども、俳句が「十七音の世界」といわれている意味がわかったような気がした。言葉にせず表現する、言葉にできないことも表現する、このようなことができるかもしれないという可能性も感じる。

ここから俳句についての興味が湧きはじめた。正岡子規にも興味を持ちはじめた。


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