「さとり」という妖怪がいます。
人の心を読むことができる妖怪です。
鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では、「覚(さとり)」という名前で、猿のような姿が描かれています。
(Wikipedia「覚」より)
さて、この「さとり」という妖怪ですが、なぜ妖怪なのでしょう?
人の心が読めるというすごい能力を持っていながら、神様や仏様ではなく、なぜ妖怪なのでしょう?
人の言葉を解し、人の心を読めるけれども、獣として描かれた理由は何でしょうか?
柳田國男(だったと思います)は、妖怪を「神の零落した姿」としました。
零落した理由は何でしょうか?
妖怪「さとり」に対して、鳥山石燕は「覚」という漢字を当てています。
一方、妖怪のことではありませんが、「さとり」を「悟り」と書くことがあります。
「覚り」と「悟り」の違いは何か?
これが、妖怪と神様仏様とを区別する違いだとしたら…。
手元の漢和辞典には、「覚」と「悟」のそれぞれの漢字の成り立ちからの意味について、次のようにありました。
【覚】見聞きした刺激が一点に交わってまとまり、はっと知覚されること。
【悟】神経が分散せず、×型にある一点で交差して、はっと思いあたること。
似たような意味ではありますが、何となく私はこのように考えます。
「覚」には「見」という漢字が使われています。
ちなみに「見」が部首だったのを漢和辞典で知りました。
妖怪「さとり」は、人の身体のちょっとした動きや反応で相手の心を読むことに長けている人(?)だと思います。
見て覚るのが「覚り」。
見たこと聞いたこと、知覚したことをひとつにまとめることができることが「覚り」。
一方、「悟」には、「吾」という漢字が使われています。
部首は「心(りっしんべん)」。
自分の思い、自分の心がひとつにまとまる、まとめることができることが「悟り」。
また、「心」を「言」に換えると「語」になります。
「覚」は外側から一点に収斂する、「悟」は内側から形作り一点になるのではないか、と。
「わもん」には、「聞くわもん」と「話すわもん」があるとのこと。
「覚」を「聞くわもん」、「悟」を「話すわもん」とすると、「わもん」とは「覚悟」となります。
聞けば叶う〜わもん入門
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