女主人公は、風にも得耐ふまじき娉婷たる美女。これ原本テキストを正確に讀みて解釋せる撒羅米の姿態也(近代映畫によりて印象さるるが如き太りじしの女人たるべからず)。従来の訳では「〈運命の女〉としてのサロメ像」「〈新しい女〉としてのサロメ像」の印象が強いが、平野訳は「〈少女〉としてのサロメ像」を言葉に表したものである。ただ従来の訳者も「〈少女〉としてのサロメ像」を読み取ってはいた。このような文脈のなかで引用された文章である。
私は、日夏耿之介の訳した『サロメ』を読んだことがないだけでなく、日夏の名前もこの解説で初めて知ったくらい(なにかの本で読んだことはあるかもしれないが覚えていない)であるので、ネットを中心で調べたことであるが、書こうとしていることは、どういった意図があって「サロメ」に「撒羅米」という漢字を当てたのかということである。もし私がサロメに漢字を当てるならば、「撒」「羅」はともかく、「米」ではなく「女」とするだろう。
ネット検索でいろいろと調べていたところ、日夏耿之介が訳した作品は『院曲サロメ』と題されており、独特の訳となっているようである。
さらに検索していくなかで、興味深いものを見つけた。「出版・読書メモランダム」というブログ内の「古本夜話64 典文社印刷所と蘭台山房『院曲サロメ』」という記事である。日夏耿之介『院曲撒羅米』(昭和52年、東出版)の巻頭に「院曲撒羅米小引」があり、そこに人名の当て字についての記載があった。
日夏による「院曲撒羅米小引」が巻頭に置かれ、そのうちのふたつは次のような文言である。どうやら、中国語の聖書から採ったようである。「美姫撒羅米ノ東方趣味ニ準ヘムガタメノミ」というのは、ワイルドの『サロメ』にオリエンタリズムの傾向があることを言っているのだと思う。
一、曲中人物ノ宛字ハ漢訳聖書上海美華書館同治四年本中ノ文字ヲ多ク採リ用ヒタリ。美姫撒羅米ノ東方趣味ニ準ヘムガタメノミ。
一、コノ訳書ヲモテ院曲撒羅米ノワガ定本タラシム。コレ訳詩大鴉ト共ニ拙訳詩曲類中何トナクタダ最モ自ラ愛玩暗喜スルモノ也。
ところで、ワイルドの『サロメ』は、新約聖書「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」に記載される「ヨハネの斬首」のエピソード(そしてそれらを題材とした先行作品)をもとに作られたことは有名であるが、この新約聖書のエピソードの中ではサロメの名は出てこないことも知られている。では、サロメの漢字はどこからとったかというと、「ヨハネの斬首」のエピソードのサロメ(ヘロディアの娘)とは別の「サロメ」が登場するところからであろう。
「マルコによる福音書」15章40節や16章1節に(別人の)サロメが登場する。イエスが十字架に磔となり死んでしまったときの記述である(引用は15章40節、新共同訳より)。
また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。Wikisourceで中国語版の聖書の該当の箇所をみると、「撒羅米」の漢字が見つかった。中国語では「マルコ」は「馬可」と書くようだ。
このサロメを別人としているのは、Wikipediaに「サロメ(イエスの弟子)」の項目があるように、一般的に別人とされているというだけで、私がさまざまな文献を当たったわけではないのだが、日夏もおそらくは別人であることを知っていただろうから、単に「サロメ」は「撒羅米」と書くというだけでその字を当てたという可能性が高い。ワイルドの『サロメ』では最後サロメは死ぬ。最後サロメが死ぬのはワイルドの創案であるが。
ただ、冒頭に触れた光文社古典新訳文庫版の田中の「解説」に、最終的には劇の形式をとる『サロメ』の、ワイルドの最初の構想が書かれていた。ヨハネの断首後もサロメが生きていてイエスに出会い、最後イエスから離れ、氷上を歩いている途中に氷が割れ、サロメが氷で首が切断されるということが構想として考えられていたらしい。もしかすると、ワイルドは別人とされているイエスの弟子であるサロメを、ヘロディアの娘と同一人物として作品を作ろうとしたのではないか、日夏はそこまで考えて撒羅米としたのではないか、という可能性もなくはないかもしれないが、可能性は少ないだろう。
というわけで、当初の私の疑問である「どういった意図があって「サロメ」に「撒羅米」という漢字を当てたのか?」ということは、「なぜ中国語で『サロメ』を『撒羅米』と書くのか?」という疑問になってしまい、おそらくは中国語の発音と表記の問題となり、これ以上は私の範囲を越えてしまいそうである(私の範囲がどこからどこまでなのかは自分でもわからないが……)。
つらつらと書いていると、思いの外、長くなってしまった。今回はここまでとして、次回は「撒羅米」という漢字からの印象、そして、もし私ならばどのような漢字を当てるのかについて書こうと思う。
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