2020/05/03

「ものの本」と「ぬらりひょん」

前回に引き続き、柳瀬尚紀さんの本『辞書はジョイスフル』の「まえがき」より。

この「まえがき」に、柳瀬さんの辞書に関するエピソードがいくつか載っていた。そのひとつに「ものの本」についてのエピソードがある。

柳瀬さんは子供のころ、「ものの本」という本があると思っていたという。『ものの本』にあこがれ、どんな本か、誰が書いたのか、いつごろ書かれたのか、どんなことが書いてあるのかということを期待していたらしい。ところが、百科事典をひらいても、『ものの本』は載っていない。そして、普通の国語辞典で「ものの本」を見つけたとき、《一瞬、躍り上がり、しかしつぎの瞬間には、がっくりした》ということだ。

また、この本(『ものの本』ではなく、『辞書はジョイスフル』)の解説で、荒川洋治さんは、「ものの本」を漢字で「物の本」と書くことを知り愕然としたことを書いている。《「もの」が「物」だとすると、この言葉の内容がうすれてしまう気がするのだが、……》。

僕の方はといえば、「ものの本」の意味や漢字での書き方をしっかりと認識していたわけでもなく、なんとなくそうだろうと思っていたことであるので、がっくりもせず愕然ともしなかった。ただ、「ものの本」のイメージと、僕にとっての柳瀬さんのイメージが重なっているように感じた。

はっきりとはしていなかったものの、柳瀬さんや荒川さんの話を聞いて、僕は「ものの本」の「もの」は「もののけ」の「もの」と同じと思っていることを認識した。「もののけ」は漢字で書くと「物の怪」となる。だから「物の本」と書くことを知っても、違和感はない。ただ、「もののけ」の「もの」も、「ものの本」の「もの」も、物体、物質としての「物」ではないので、「物の本」「物の怪」と書くよりは、ひらがなの「もの」の方がいいかもしれないとは感じる。

ところで唐突に話が変わるのだが、僕にとって柳瀬さんは「ぬらりひょん」のような存在である。容貌や性格のことではない。僕は柳瀬さんに会ったことはないし、ぬらりひょんにも会ったことはない。「ぬらりひょん」と聞くと僕は水木しげるさんの描いた「ぬらりひょん」を思い浮かべてしまうが、その「ぬらりひょん」のイメージは柳瀬さんとは重ならない。僕にとっては、「ぬらりひょん」という言葉の語感が、柳瀬さんのイメージに近いのである。

柳瀬さんの著作で最初に読んだものは『日本語は天才である』で(並行して、棋士の羽生さんとの対談本を読んだので、どちらが先だったかは覚えていない)、この本を読んで柳瀬さんの凄さを知り、柳瀬さんの他の著作も読んでみたくなった。それ以前にも、翻訳不可能と言われていた『フィネガンズ・ウェイク』を日本語に翻訳したという話や『ユリシーズ』を翻訳しているという話は聞いてはいたが、そのときは『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』というジェイムズ・ジョイスの作品があるとか、柳瀬尚紀という翻訳家がいるということを知っただけで、それを翻訳した、している、というのはどれほど凄いことなのかについてはまったく知らなかった。そんななかで『日本語は天才である』を読んで、もう少し柳瀬さんがどんなことを思って翻訳をしているのだろうかということを知りたくなったのだ。なので柳瀬さんの著作を探すのと同時に、翻訳した本も確認した。といっても著者紹介を読んだだけなのだが。

すると、すでに僕の手元にある本のなかに柳瀬さんが翻訳したものがいくつも見つかった。

たとえば、ボルヘスの『幻獣辞典』であったり、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』だったり、ホフスタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』だったり……。いつの間にか近くにいたのに、僕は気づいていなかった。ぬらりとひょんなところから出てきた感じがしたので、僕にとって、柳瀬さんのイメージは「ぬらりひょん」という言葉となった。

国語辞典によると、「ものの本」というのは「(その方面のことが書いてある)本」という意味が書いてあった。ぬらりひょんのような意味である。思えば、「ものの本」と「ぬらりひょん」と、なんだか語感が近くないだろうか。

こんなぬらりひょんなことを考えながら、本を読む。ぬらりひょんな文章を書く。

平和、まったき平和。

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