2012/05/17

『(ら)れる』のコーチング論(2)

以前に「『(ら)れる』のコーチング論(1)-受身・被害・自発・可能・尊敬」という記事を書きました。

今、確認するとずいぶん前ですね…。


これは、日本語の助動詞「れる・られる」と、コーチングには共通点があるかもしれない、と思いつきで書いた記事です。

今回はその続編…、になるかどうか…。


日本コーチ協会のHPでは、コーチングとは以下のように書かれています。
■コーチングとは?

プロフェッショナル・コーチングとは、コーチとしての専門的なトレーニングを受けたコーチとクライアントと呼ばれる個人(またはチーム)が目標を設定し、成果を達成していくためのパートナーシップです。

クライアントとコーチは会話を通じてコミュニケーションを交わします。コーチは聞き、観察し、質問し、時には提案することによって、クライアントの行動をより起こしやすくしていきます。

コーチングのプロセスでは、コーチはクライアントがより効率よく、より効果的に行動できるよう焦点を絞り、あらゆる行動の選択肢を明確にします。同時にコーチはクライアントの現在地と、向かう先の位置を意識させます。

コーチによるコーチングスキル、コーチングアプローチ、コーチング知識のサポートを得ることで、クライアントは自分の責任において意思決定、選択、そして行動を起こし、成果がもたらされます。プロのコーチはその関係を理解しています。

現在地と目標を意識させ、選択肢を明確にし、意思決定や行動をより起こしやすくしていく。そして成果を達成していく。

クライアントの自主性を高めていくとも言い換えることができます。


さて、私は大学生のとき、言語学を学んでいました。統語論が中心です。できのいい学生ではありませんでしたが…。

そこで、受動態(いわゆる「受身」)についてもかじりました。

柴谷方良先生はプロトタイプ論の立場から、受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とし、その機能が「尊敬・可能・自発」の構文に関連付けられることを論じています。

当時からあまり深くは理解できておらず、今ではもうあやふやになってきてしまい、論文や参考文献も手元に置いていないのでおぼつかない知識のままですが、そこでは「他動性」という概念が出てきます。

「他動性」が高い現象は、言語において「他動詞構文」として表現され、「他動性」が低い現象は「自動詞構文」として表現されます。

つまり、「他動性」という概念を用いて、他動詞構文と自動詞構文をひとつの連続体として取り扱おうという試みです(このような表現が適切かどうかはさておき…)。

他動性が高い動詞としてよく例に取り上げられていたのは、物騒ですが、「殺す」や「壊す」「割る」といった動詞。

動作を行う動作主がいて、対象に何らかの力を与えてその対象が変化する、そういった意味を表わす動詞(あるいは文)を他動性が高いといいます。

そして、他動性が高い能動文からは、容易に受動文が作れます。

例えば、(物騒ですが)「太郎は次郎を殺した」という能動文を受動文にする(受動化)と「次郎は太郎に殺された」となります。

「太郎は次郎を殺した」の例でいうと、太郎は「殺す」という動詞の「動作主」、次郎は「殺す」という動詞の「対象」といえます。

能動文では、動作主が主語として、対象が目的語として表現されますが、受動文では、対象が主語、動作主は助動詞「に」を伴って表現されます。

能動文では、動作主が焦点として主語となっていますが、受動文では焦点が対象となっている、つまり受動文では動作主が脱焦点化されているわけです。

(※「主語」とは何か?等の問題は詳しくは立ち入りません…)


受動化の機能を「動作主の脱焦点化」とすると、典型的な、あるいはプロトタイプ的な受動文は「受身」の意味ですが、そこからの意味の発展・拡張として、「尊敬」「可能」「自発」の意味が生まれるのではないか、という説です。

(何度も書きますが、うろ覚えです…。)

統語的に比較すると、能動文では動作主は助詞「ガ」、対象は助詞「ヲ」を伴い、動詞は基本形。

受動文では動作主は助詞「ニ」、対象は助詞「ガ」を伴い、動詞には助動詞「(ラ)レル」が付きます。


一方で「自発」的な表現というのは、自然にそうなった、というような表現で、例えば「ガラスが割れた」など(本当に何もなく自然にガラスが割れることは確率的には少ないにも関わらず。)という表現です。

ここには動作主は不在で、対象は「ガ」を伴って、また「割る」という動詞から派生した「割れる」という動詞を使用します。


また一方で、「可能」的な表現では、「太郎は瓦が割れる(=割ることができる)」というような表現で、対象は「ガ」を伴いますが、動作主がいます。

動詞は「割れる」ですね。

また、「太郎は瓦を割れる(=割ることができる)」というように、対象が「ヲ」を伴って表現されることもあります。(違和感がある表現と感じる方もいらっしゃるかもしれません。)


「割る」と「割れる」という他動詞・自動詞の対を考えるとき、「ら抜き言葉」を思い出さずにはいられません。

「ら抜き言葉」を日本語の乱れと考えられる方もいらっしゃいますが、私は「可能動詞の生成」と考えています。

例えば、「食べる」を助動詞「(ら)れる」をつけると「食べられる」となりますが、この「食べられる」は受身の意味にも可能の意味にも使うことができます。

しかし、その「ら抜き言葉」である「食べれる」は、可能の意味でしか使われず、受身の意味で用いられることはありません。

「食べれる」という可能動詞ができつつある現象が「ら抜き言葉」ではないかと捉えることもできます。


例えていうならば「青」と「緑」の間の色を「青緑」というように、「能動」と「受動」の間に「可能」があるのではないかともいえるのではないか。

同じように「自発」「尊敬」も、「能動」と「受動(受身)」の間にあるのではないか。


コーチングの話に戻すと、コーチングの目的は、「動作主の焦点化」ではないかと思っています。

クライアントに焦点をあて、クライアントが主語で、クライアントが動作主。

受身的の状態から、能動的になるよう促していくのがコーチングの目的ではないかと。


受身と能動の間には、可能・自発・尊敬があります。


クライアントができるようにする。

クライアントが自発的・自主的な行動を起こせるようになる。

クライアントを尊重する。


コーチが不在でも、クライアントは動作主として、他の対象に影響を与え、その環境を変えていく。

上手くはいえませんが、「(ら)れる」のコーチング論というのは、「言語(あるいは認識)」と「コーチング」を統一的に考えようとする試みです。