最近、『大学』『中庸』を読んでいます。
『大学』『中庸』は、儒教の四書のうちの2つ。
ちなみに四書とは、『大学』『中庸』『論語』『孟子』です。
しかし、読みづらい…。
漢文の素養が少ないとか、意味がわからない言葉がたくさん出てくる、ということは脇に置いて…。
『大学』『中庸』ともに、いくつかの章句に分かたれ、その章句について、原文、読み下し文、注釈、口語訳(あるいは通解)と書かれているため、全体の流れがなかなかつかめませんでした。
『論語』ならば、それぞれの章句がほぼ独立しているため、このような書き方の方が読みやすいと思うのですが、『大学』『中庸』については、全体の流れがあるので、もう少しわかりやすいものがあれば、と考えながら読んでいました。
まず、購入した本は講談社学術文庫の『大学』と『中庸』。
講談社学術文庫での発刊年を見ると、『大学』『中庸』ともに1983年ですが、底本については、『大学』が1916年、『中庸』が1918年の発刊。
漢字や仮名遣いは現在式に改められてはいるものの、注釈や通解においても文語調となっている箇所が多々あり、読みづらい…。
まあ、これは文語調に慣れていないせいですが…。
しかし、一番読みづらいと感じたのは、この『大学』『中庸』の書物の出典にあるかと思ってます。
もともとは、『大学』『中庸』ともに『礼記』という書の一篇とのこと。
そして、そのなかで『大学』『中庸』ともに一躍有名になったのは、朱熹(朱子)が章句を定めて定本をつくり、『論語』『孟子』とともに四書と定めたからです。
『大学』『中庸』には、朱熹の序文やちょっとした解説なんかも入っています。
講談社学術文庫版の『大学』『中庸』は、この朱熹の定本をもとに訳注がつけられています。
もともとの『礼記』の一篇の「大学」「中庸」に、朱熹の序文や解説が入り、その訳注を読むことになるわけです。
そして、現在手元にある訳注には、「朱熹がこういっていることは正しい」とか「ここは違うだろう」というものが入ってきます。
つまり、「もともとの『大学』(あるいは『中庸』)が伝えたいこと」と「朱熹が伝えたいこと」と「訳注者が伝えたいこと」の3つが入り乱れています。
これが読みにくさの原因ではないかと考えています。
まあ、裏を返せば、私自身が整理できていない、ということなのですが…。
一方で、岩波文庫版の『大学・中庸』は、朱熹の定本も参考にはしていますが、基本的に『礼記』を元の訳注となっています。
こちらの発行は1989年と比較的新しく、私にとっては講談社学術文庫版よりは読みやすく感じました。
今回、『大学』『中庸』ともに初めて読んだのですが、現代にも通用するような考え方です。
宗教的なものはあまり関心はありませんが、儒教はなかなか面白いものだと思いました。
ちょっと自分の中で整理していきたいと思います。
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