小林秀雄さんのことはほとんど知らない。『考えるヒント』についても、エッセイ集であることくらいしか知らない。その『考えるヒント』の最初のエッセイのタイトルが「常識」である。
常識については持論がある。
常識という言葉は、「常識を知らないのか」とか「そんなことは常識だ」とか、知っていて当然のことを知らないときに使われることが多い。しかし考えてみてほしい。常識というのが、「いついかなるときでも誰もが知っている知識」だとすれば、知らない人がいることは常識ではない。だから「常識を知らないのか」と言われたら、「私が知らないということは、それは常識ではありません」と答えるようにしている。心の中で。
かといって、自分が知っていることが常識であるかどうかはわからない。自分にとっての常識が、相手にとっても常識であるかどうかもわからないし、世界中の誰もが知っていることがあるのかと問われれば確認のしようもないわけで、常識の中身はわかっていない。だから基本的に「常識」という言葉は使わないようにしている。
以上は私の持論である。小林秀雄さんが書いているわけではない。
極端な例(屁理屈ともいう)を挙げてみたが、私も常識というのが「いついかなるときでも誰もが知っている知識」とは思っていない。誰かが「常識」という言葉を使ったとき、そこにはその人の常識の範囲がある。それは私が使ったときも同じである。
小林秀雄さんはエッセイの中で以下のように述べた。
常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。
そんなことは常識だ。
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