北村薫さんの『謎物語』に掲載されている話です。
テレビで、ディズニーのアニメをやっていた。子供が見ている。このような話が好きです。
犬のプルートが、りすのチップとディールを追いかけ、せっかくのクリスマスツリーを倒してしまう。ミッキーがおなじみのかん高い声で叱る。
――駄目じゃないかっ、プルート!
そこで、
「プルート、口惜しくないかねえ」
といったら、子供はきょとんとしている。注釈してやった。
「ねずみに飼われてさあ」
受けた。それからしばらく、ミッキーとプルートの物真似が流行った。子供がいう。「――駄目じゃないかっ、プルート! ――何だと、ねずみのくせに。ガウ、ガウ」下剋上。パニックに陥るミッキー。「――あ、こら。どうしたんだ、プルート。何をするんだ、やめろ、やめろっ」
声色が案外うまいので(ミッキーファンの方には申し訳ないが)、これが、かなりおかしかった。
ミッキーファンの方には申し訳ありませんが。
そして、北村薫さんは続けます。
先述のミッキーとプルートの物真似を、子供があきもせず演じたのは、
示された見方、切り取り方に意外性があったからだろう。今まで当然のものとして受け入れて来たことに異論が唱えられた――そこに不思議な面白さを感じたのであろう。今まで当然のものとして受け入れてきたこと。
これは、ひとつの「枠」だと思います。
その枠に異議が唱えられ、不思議な面白さが感じられる。
ワクワクする。
よくわかります。
しかし、北村さんの言葉はまだ続きます。
しかし、考えてみると、不思議なのはどちらか。
りすの姿で木のうろで生活するが、人間ように思考し会話するチップとディール。
ミッキーは服を着て人間の生活をしていて、プルートは首輪をしてミッキーに飼われている。
プルートと同じ犬であるにも関わらず、グーフィーは服を着て「あっひはー、ミッキー」などと登場する。
これだけ複雑な《人間関係》を子供は、すらりと受け入れている。いや、誰でもそうだろう。
わたしは、それが《当たり前》であることに感嘆したのである。そこで、つい、《お前たち、すごいことやっているんだぞ》というのを、別の形でいってしまったのだ。
現実の枠から物語の枠へ。
物語の枠から現実の枠へ。
「枠」それ自体は善くも悪くもなく、必ずあるものかと。
その枠を認め、ときには枠から外に出ると、ワクワクが湧くのかもしれません。
謎物語―あるいは物語の謎 (角川文庫)
わもん -聞けば叶う