子曰く、吾回と言う。終日違わずして愚なるが如し。退いて其の私を省みれば、亦以て発するに足れり。回や愚ならず。
論語を頭から読むと初登場の顔回です。
孔子が顔回に話をしました。
終日孔子が話をするにも関わらず、顔回は変わることなく愚か者のようでした。
しかし、顔回は孔子の話から何か得たようです。
孔子は、部屋を退いた顔回の行動を省みると、そのことがわかり、「回や愚ならず。」と。
顔回は、孔子のお気に入りの門人です。
お気に入りと言うと語弊があるかもしれませんが。
残念ながら若くして亡くなってしまったようで、孔子は顔回が亡くなったとき嘆き悲しみます。
『論語』のどこかに、「君子は行動してから説明する」というような言葉がありますが、顔回は実行・実践の人です。
しかしここでは、顔回の実践もさることながら、孔子の観察力というか、人の評価のしかたというか、そのようなことが主題となっています。
孔子が話をしている間、顔回は何も変わっていないようでした。
ここで、「顔回は愚か者である」と結論してしまうことをしませんでした。
その後の行動を観察し、顔回には話が通じてその意義を実践していることを確認します。
教育や育成の場面でも、言葉で伝えたことだけで「教えた」となりがちです。
何か指導をしたとき、たいていは「わかった?」と尋ねると、「わかった」と答えます。
「わかる」と「できる」は違うとよく言われますが、孔子も顔回も「できる」ことに主眼を置いていることがわかります。
私は今、「わかります」と書きましたが、できていません…。
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