2019/04/28

『プロ倫』の論理

前回から続く)

マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫』)は読んだことがない。大澤真幸さんの著作から知っているだけである。そのため以下については、大澤さんの読みをもとに私が解釈していることとなる。

『プロ倫』は、「資本主義の精神」の萌芽は「プロテスタンティズムの倫理」にあるということを論じた本である。「プロテスタンティズムの倫理」から「資本主義の精神」が導き出されるという内容である。「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」がどのようにつながっているのか。

ヴェーバーは、プロテスタントの中で、特に「カルヴァン派の予定説」に注目している。予定説というのは、全知全能の神は予め誰を救済するのかを決めており、それを変更することができないという説である。一種の運命論、決定論のようなものだ。Wikipediaによると、カルヴァン派(カルヴァン主義)の神学体系は「予定説と全的堕落の教理により、最もよく知られている」ということだ。

大澤さんは、予定説から世俗内禁欲(資本主義の精神の萌芽)が導き出されることについて、次のようなたとえで説明している。
たとえば、教師が、その学期の授業の前に、生徒たちに対して、こう宣言したとしよう。「君たちの合否の判定はすでに決めてある。君たちが何をしようが――つまり勉強しようが怠けようが――その結果を変えることはできない」。生徒たちは、この宣言にどう反応するだろうか。彼らは熱心に勉強するだろうか。絶対にそんなことはない。ほとんどの生徒たちは、怠けるに違いない。だが、予定説によって世俗内禁欲がもたらされたとすれば、それは、神がこの教師と同じようなことを宣言しているのに、生徒たちが熱心に勉強している、というケースにあたる。これはまことに奇妙なことである。
大澤真幸『考えるということ 知的創造の方法』
この「予定説によって世俗内禁欲がもたらされた」とする「奇妙なこと」の論理として、前回の「ニューカムのパラドックス」の論理が当てはまるというのが、大澤さんが本に書いていることです。

「ニューカムのパラドックス」の問題を再掲する(前回記事と同じく、ガーディアン紙での問題)。
問題: 超知的生命体が置いた、箱A、箱B、と2つの箱がテーブルの上にある。箱Aの中には、現金100万円が入っている。箱Bの中には、現金1億円が入っているか何も入っていないかのどちらかである。箱Bに1億円が入っているのかどうかを確かめるすべはない。あなたには次の2つの選択が与えられている。

・H1:箱Bのみをもらう。
・H2:箱Aと箱Bの両方の箱をもらう。

普通に考えれば誰もが両方の箱をもらうだろうが、前提として、箱を置いた超知的生命体は未来を予測することができて、あなたが両方の箱を選ぶと予測した場合は箱Bには何も入れず、箱Bのみを選ぶと予測した場合は箱Bに1億円を入れておく。はたして、どちらの箱を選べば最大の利益を得られるだろうか?
この問題を、予定説に当てはめてみると次のような問題になる(大澤さんの議論をもとに私が創作したもの)。
問題:「怠惰」と「勤勉」と2つの生き方がある。「怠惰」に過ごすとちょっとした快楽がある。「勤勉」に過ごすと「魂の永遠の救済」があるかもしれない。ないかもしれない。救済されるかどうかを確かめるすべはない。神も教えてくれない。あなたには次の2つの選択が与えられている。

・H1:常に勤勉に過ごす(世俗内禁欲)
・H2:ときどき勤勉に、ときどき怠惰に過ごす。

神は、H2を選ぶ人を救済しない。H1を選ぶ人を救済するとすでに決めている。あなたを救済するかどうかも決めているが教えてくれない。はたして、あなたはどちらを選ぶか?
前回記事の「ニューカムのパラドックス」での論に従えば、H2を選ぶ方が優位ではあるが、H1を選ぶ人が増えるということになる。この論理で、カルヴァン派の予定説から世俗内禁欲が導き出されるというのが、『プロ倫』の大まかな筋である。

これまで「ニューカムのパラドックス」の論理、そして『プロ倫』の論理を見てきた。同じ論理ではあるが、私にとって『プロ倫』の方は、読んでいない本でもあるし、「神」や「救済」というのは実感がわかないことでもあるのでまだ少しわかりにくい。そして、大澤さんの議論もここで終わってはいない。

この「ニューカムのパラドックス」が発生することや、予定説から世俗内禁欲が導かれることは、全知全能で予測できる「超知的生命体」や「神」がいることで表れてくる論理である。予測できるということを言い換えると、「事後の視点」を持っているともいえる。選択後の、事が終わった後の、結果を知っているということである。

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