オイゲン・ヘンゲル述『日本の弓術』です。
日本の弓術 (岩波文庫)
通っていた高校には弓道部があり、弓道場もありましたが、私は弓道部員ではありませんでしたし、弓を引いたこともありません。
なぜ気になっていたかといえば、おそらく、最近読んでいる『論語』や『孟子』の影響ではないかと思っています。
『孟子』公孫丑篇には次のような言葉があります。
仁者は射るが如し。射る者は己を正しくして後に発つ。発って中らざるも、己に勝てる者を怨みず、諸を己に反み求むるのみ。矢が的に当たらず、自分に勝った者を怨むことなく、自分自身を省みるということです。
心の矢印を自分に向ける、ですね。
『日本の弓術』では日本の弓術(弓道)について、以下のように述べています。
弓を射る「術」とは、…(中略)…純粋に精神的な鍛練に起原が求められ、精神的な的中に目的が存する能力、したがって射手は実は自分自身を的にし、かつその際おそらく自分自身を射中てるに至るような能力を意味している。このことを本の中では「射手の自分自身との対決」と表現していますが、この自分自身との対決の本質について、さらに、
射手の自分自身との対決とは、射手が自分自身を的にしてしかも自分自身を的にするのではなく、すなわち時には自分自身を射中ててしかも自分自身を射中てるのではないということであり、したがって弓術を実際に支えている根底は、底なしと言っていいくらい無限に深いのである。
オイゲン・ヘンゲル氏は日本滞在中に阿波先生のもとで弓道を学びました。
その体験をもととして、ドイツで行なった講演の日本語訳が『日本の弓術』です。
中島敦の短編「名人伝」も思い出しました。
『日本の弓術』の中で私が非常にグサッときた言葉が、阿波先生がヘンゲル氏を戒めた言葉です。
「中てようと気を揉んではいけない。それでは精神的に射ることを、いつまで経っても学ぶことができない。あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする弓の持ち方を考え出すのはたやすいことである。あなたがもしそんな技巧家になるつもりなら、私というこの精神的な弓術の先生は、実際に必要がなくなるでしょう」
いろいろなところでスキルを求めがちです。
もっと上手くするにはどうすればいいか。
効率的に行うにはどうすればいいか。
いい方法はないだろうか。
大半のものごとは「あれこれと試してみて、なるべく多数の矢が少なくとも的の枠の中に来るようにする」でもいいかもしれません。
テストを例にとると、合格すればいい、ということならば、スキル(技)は有効だと思いますし、技巧家でもいいと思います。
しかし、真剣に取り組むようなことならば、技巧家で止まりたくはありません。
『日本の弓術』に所収されている小町谷操三さんの「ヘリゲル君と弓」には、阿波先生の「射道について」という放送の要旨があり、そこには「養由基は柳の葉を百歩の外から射抜くこと百発百中であったのに反し、孔子の射は百発成功であった」という話がありました。
そして、「百発百中は凡射であり、百発成功は聖射である」とも。
さて、わもん黒帯は初段から七段まであり、そのあと「名人」「匠」「聖」「玄」とあります。
百発成功が「聖」射であるならば、「玄」はどれほどなのか。
『論語』の言葉を借りれば、
之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し。です。
之を瞻れば前に在り、忽焉として後ろに在り。
わもん -聞けば叶う