正直なところ、狂言の面白さはわかりません。
1度テレビで見たことがあるのですが、面白いというより感心してしまいます。
特に、声の出し方や身体の使い方に目がいってしまいます。
『狂言サイボーグ』を読んで面白いというか、興味を持ったところは、言葉の使い方です。
何となく、私と似ている感じがしました。
もちろん知識量・経験量は全く及びませんが…。
『狂言サイボーグ』は、日経で連載していた狂言についてのエッセイと、「ござる乃座」のパンフレットに書かれた文章を集めて一冊にしたもので、エッセイの方はそのほとんどに「狂言と○○」というタイトルがついています。
私と似ていると感じたのは、エッセイの締めくくりを言葉遊びのようにしてまとめている部分。
たとえば、「狂言と「首・肩」」というタイトルのエッセイの締めくくりは、
しかし、現実の世の中は首が座らず、首を傾げたくなるような、アンバランスな出来事が多い今日この頃である。「狂言と「手」」の締めくくりは、
手を使えば手の込んだ演技ができる。だがそれを観客が見る時、手法を感じさせずに厚手な演技ができる所に、役者の手腕たるセンスが問われるのである。など。
「首」「手」というテーマに沿って、「首」や「手」という言葉を使った慣用句であるとか、あるいは単語・熟語などをふんだんに取り入れて文章を締めくくっているところです。
こういうことを書いてしまうと、この記事をどう締めくくろうか迷ってしまいますが…。
さて、この『狂言サイボーグ』というタイトルは、文庫版あとがきによると、
そもそもこの本のタイトルを「狂言サイボーグ」にしたのは、石ノ森章太郎の「サイボーグ009」よろしく、自分の意思とは関係なく半分機械を埋め込まれ、プログラミングされた人間としての、多少の悲哀を込めたものだった。ということです。
幼い頃から自分の意思と無関係に狂言をプログラミングされたちょっとした哀しみが表現されています。
しかし一方で、
人体は一種のハードウエアのようなものだ。知識ではなく身体で「型」や「カマエ」といったソフトウエアを体得させた精巧なコンピュータを持っていれば、実はそれだけ個性を発揮する力にもなる。自分の意思とは関係なく、幼い頃から狂言をたたき込まれたことが、私の身体を気に入ったコンピュータにしてくれている。とも書いています。
「型」や「カマエ」などは堅苦しい感じがしますが、ソフトウエアですので、実は柔らかいのかもしれません。
狂言サイボーグ (文春文庫)