内田先生のことは、恥ずかしながら、ツイッターでしか知らず、どこかの大学教授ということくらいしか知りませんでした。
さらに、内田先生のツイッターのアカウント名が「@levinassien」で、これを『リヴァイアサン』と読み違えていて、社会学とかその系統の教授だと勝手に思っておりました(^-^;)
で、冒頭のブログ記事が頭の片隅に残っていたためか、本日、本屋さんにフラッと立ち寄ったときに、内田先生の名前を見つけ、何か武道論や身体論のことが書かれた著作を読んでみようと思い、書棚を眺めて1冊を選びました。
『武道的思考』というタイトルの本です。
『身体で考える』という対談の本と迷いましたが、対談集よりは著作の方がいいかな、と。
早速読みはじめています。
まだ、途中までしか読んでいませんが、興味深く読めそうです。
「武道」の本旨を「人間の生きる知恵と力を高めること」とし、「人間の生きる知恵と力を開発する技術の体系」と捉えた上で、様々なよしなしごとが書かれています。
文章は、「家事について」という項の次の言葉。
剣と杖を振り続ける稽古について、「私」が「剣」を「揮っている」と、主語と他動詞と目的語の構文でこの動作を捉えている限りは苦役であるとして、
私たちはそこに「私・剣複合体」が生成して、それが「動きたいように、動いている」という体感構造に身体の文法を書き換えるために稽古しているのである。
それが無意識のうちにできるようになれば、他のどのような「もの」と出会っても、私たちは一瞬のうちに、それと「溶け合って」、自在に動きたいように動くことができるようになるはずである。
「わもん入ってる」を思い浮かべました。
「わもん入ってる」は(おそらく)「intel入ってる」のもじりで、「intel」といえば、パソコンのCPU。
CPUは、「Central Processing Unit」の略で、「中央演算装置」などと訳されます。
「わもん」は「話す」と「聞く」で「わもん(話聞)」。
話すとき、聞くときのひとつの文法、演算装置です。
身体の文法を「わもん」という文法に置き換えるために、「聞く修行」が提唱されています。
「話し手」と「聞き手」という二元的な会話の技術ではなく、一元的な話聞一如の境地。
「道」を極めることは、同じような境地に行きつくのかもしれません。
ちなみに、内田先生のツイッターアカウントは「レヴィナシアン(@levinassien)」で、レヴィナスからきたものだと知りました。
奥付の著者プロフィールによると、専門はフランス現代思想、武道論、教育論。
しかし、「まえがき」では「本業は武道家」とのこと。
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