2012/06/14

わもんな言葉5-一期一会

物語を読み終えるとその語り口が移ってしまうときがある。語り手が自分の中にいるような気分だ。例えばヒーロー物の映画などを見た後、その主人公になったように思えることもある。自分が強くなったような錯覚。

今は『アラビアの夜の種族』を読み終えて、そのままの余韻の語り口で書いてみよう。

先日、「『アラビアの夜の種族』を途中までしか読んでいない」ということをブログに書き、その日から読み始める。そして、先ほど読み終えたばかり。

結論から(ではないけれども)いうと、以前に読んでいた。途中で止めていたわけではなかった。内容を忘れていただけだ。読み進めるうちに記憶は甦る。物語が再生される。


古川日出男さんの『アラビアの夜の種族』は、文庫本で3分冊されている。単行本としては1冊。どちらも手元にあるはずだが、単行本の方は見当たらない。文庫本を買ったときにひょっとすると処分してしまったのかもしれない。あるいは実家に持って帰ったか。

いずれにせよ、今手元にあるのは文庫本3冊で、時間があれば読んでいた。おかげで「夜の種族(ナイト・ブリード)」の仲間入りだ。生活に支障をきたすには至らなかったものの睡眠は削られていた。

その中からの引用。
 書物とはふしぎです。一冊の書物はいずこより来るのか? その書物を紐解いている、読者の眼前にです。読者は一人であり、書物は一冊。なぜ、その一冊を選んでいるのでしょう。ある種の経過で? ある種の運命で? なぜ、その一冊と――おなじ時間を共有して――読むのでしょう? 読まれている瞬間、おなじ時間を生きているのは、その一冊と、その一人だけなのです。
 一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指すのです。

はじめに、語り口が移ってしまいその語り口で書いてみよう、とわたしはいいましたが、引用した部分と最初の語り口が違っているように思う方もいらっしゃると思います。それは『アラビアの夜の種族』には幾人もの語り手がいるからです。著者(訳者といったほうがいいかもしれませんが)の語り、ズームルッドの語り、アイユーブの語り、そして書物自身の語り――様々な語り手がいます。

一冊の書物、物語にとっては、読者、聴き手が必要です。もとめている者のまえに物語は顕現われます。

『アラビアの夜の種族』のなかで、物語は、語り手として聴き手として、人間そのものとして顕現われます。そして人間も書物として。
「本よ」とファラーはいいました。「おれは、おまえだ」
生きている書物だった。あるいは一冊の人間だった。

一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指すならば、一人の話し手にとって、聞き手とはつねに唯一の人間であることがいえます。逆もしかり。聞き手にとって話し手は唯一の人間です。
「そして物語は」とズームルッドはいった。「それをもとめている者のまえに、かならず、顕現われます。ですから、あなたが、わたしたちの目前に」


さて、今回は口調(文体)を変えて語ってみました。

このような語り口のわたしと出会うのは、これが最初で最後かもしれません。





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