文庫本が出版された当時に読んで以来なので、話の筋を全く覚えておらず、初めて読むような印象で読めました。
しかし、古川日出男さんの小説は、すごい!
感覚を言語化するのがとても巧みで、物語化されています。
文芸批評などしたことはありませんので、どこがどのように上手いなどということは私にはできませんが、なぜ今まで再読しなかったのだろう、とちょっと後悔しています。
そういえば『アラビアの夜の種族』は途中までしか読んでいないな…。
古川日出男さんの小説で初めて読んだのは『13』ですが、『13』は視覚について、特に色彩のイメージ。
『沈黙』は聴覚。
そして『アビシニアン』は嗅覚。
もちろんそれだけではないですが、「感覚の物語」「感覚の小説」のような気がします。
「物語の力」を感じます。
で、本題に入って、「わもんな言葉」ですが、『アビシニアン』からひとつ引用するとすれば、次の個所です。
たいせつなことがひとつあった・・・・・・ひとつだけあった。それはこれらの絵がずっとわたしになにかを告げようとしていたことだ。死んだ意味ではない。葬り去られた意味ではない。文字としての意味などではない。そのことは認識できた。だから、ここから――絵を絵として、観賞して観ることにより――得られる印象は、ことばの心愽だと感じた。残像が響きであり、それがほんもののことばの到達する場所を、地点を指し示している。
「わもん」でのテーマを何にしようか迷いましたが、「わもん」の言葉ではなく、「禅」の言葉「不立文字」がいいかと。
不立文字――文字を立てない。
文字や言葉が不要であるというわけではありません。
鈴木大拙さんがどこかで「『不立文字』といいながら、禅には多くの言葉がある」といった意味のことをおっしゃって(書いて)いましたが、伝達の手段として言葉は重要です。
しかし、言葉では伝えられないこともある。
同じく禅の言葉として「直指人心」という言葉があります。
直ちに人の心を指せ。
言葉は「そのもの」ではありません。
言葉は媒介、器、パッケージです。
便利な道具ではありますが、言葉にするときに何かがそぎ落とされてしまいます。
デフォルメされてしまいます。
直ちに人の心を指すには、言葉が邪魔になる場合もある。
不立文字。
ついでながら、禅には四聖句というものがあります。
「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」の4つ。
以前にちょっとこのブログにも書いたことがあります。(「禅の四聖句」参照)
私の中では、「不立文字」と「教外別伝」はセットで、そこから「直指人心」、そして「見性成仏」という流れです。
「文字を立てない」「お経(教え)の外で別に伝える」そして「直ちに人の心を指せ」、そうすれば「本性が見えて仏に成れる」。
そして「見性成仏」をわもん用語(?)に直すと、「聞けば叶う」だと思っています。
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