今回のテーマは「離我」です。
「わもん」と出会う前に読んだものですが、「離我」という言葉のイメージから連想した場面です。
無響室で自分の心臓の鼓動を聴いた。胸の上に聴診器めいたマイクをあて、機械が体内音を拾いあげて、密室の中央に横たわるあたしの外部から、スピーカーで聞かせる。猫のお腹に耳をあてるよう。ただ、移動している感覚がある。猫のばあいにはそれはない。スピーカーの配置とコンピュータ・プログラムの細工。心臓が外側にあるのではない。あたしが要するに、中心を喪失している感覚だった。肉体からの遊離。あたしがきわめて精神的な存在となる。幽体離脱とはこういう感じだろうか。聴力に集中して、肉体を――重さのある肉体を喪失する。引用元は、古川日出男さんの『沈黙』
「離我」という言葉を聞いたとき、古川日出男さんの小説の場面が浮かびましたが、どの小説か思い出せず、そのままとなっていました。
先日より少しずつあたりをつけながら手持ちの本を読んでいましたが、やっと発見。
実際、どんな音なのでしょう。
自分自身の内部の音が、外部から聞こえる感覚は。
仕事柄、自分の声を録音したものを聞くことがときどきあります。
自分が発する声と録音されて流れる声は違って聞こえます。
骨伝導、でしたっけ?
初めて自分の声を聞いたときは、「これが自分の声?」と、おそらくは誰もが違和感を持つと思います。
私は自分の心音を聞いたことがありません。
しかし、もちろん心臓が動いていることを感じたことはあります。
外から感じ取ることができたなら、かなりの違和感を感じるのではないかと想像します。
そして、タイミングよく(!?)「へその緒周波数交流」という新語。
【わもん入ってる】聞くとは…へその緒周波数交流という新語が名古屋で誕生しました 。#わもん
— やぶちゃん@聞き方教室さん (@wamonyabuchan) 6月 6, 2012
思えば、胎児のときは母親の胎内で、母親の心音を内部から、自分からすると母親の心音を外部から聞いていたのですね。
そのときの感覚は……、さすがに記憶にありません。
書籍『わもん』には、次のような言葉があります。
まずは、「話し手の心臓の音を聞く」「鼓動を感じる」という感覚をもってみるとよいと思います。私は、話し手の「命の音」も、自分自身の「命の音」も、まだ聞いたことがありません…。
……(中略)……
心臓音は、話し手の命がそこにあることのあかしです。「命の音」と言ってもよいでしょう。それを聞くことは、「命を聞く」ことだと思います。
全く別のことですが、今回、『沈黙』を再読するにあたって、次のような言葉も見つけました。
あなたの人生のアウトラインを示す情報は受けとっていた、あとは――ここで、あなたの人生に波長をあわせる。どんな音のエレメントが必要なのかは――推理と、直観だった。これも「わもんな言葉」だと思います。
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