言葉というのは葉っぱであることに今さらながら気がついた。
— さのともさんさん (@sanotomo3) 6月 27, 2012
ということは、「言幹」とか「言根」とかもあってもいいんじゃないかとも。
しかし、そのような言葉はありません。
言いたいことの葉っぱが「言葉」とすれば、言いたいことの「幹」とか「根」とかもあっていいんじゃないかな、と思いを巡らしていると、「言いたいこと」を「植物」に例えているな、とあらためて気づきます。
私たちは何か植物を見るとき、その葉っぱの形状や色などから植物を見分けているように思います。
植物学的な分類方法は知りませんが、常緑樹や落葉樹とかは葉っぱがどうなるかという分類ですね。
銀杏や紅葉などは、葉っぱの形や色に特徴があります。
言葉もそのような傾向があるかもしれません。
その言葉を聞くことで、その人の特徴などを知る手掛かりになります。
しかし、それが全てではない。
植物も葉っぱだけではありませんし、人も言葉だけではありません。
こんなことをうつらうつらと考えていましたが、それほど深く考えることもなく、走りに出かけました。
走った後は、本屋さんへ行くのが習慣です。
何故かと言われても困りますが(^-^;)
で、本屋さんで本を眺めていると、沢庵禅師の『不動智神妙録』の文庫本を発見。
『不動智神妙録』は、沢庵禅師が柳生但馬守に剣禅一如を説いたもので、講談社学術文庫版の『五輪書』に、よく引用されていたものでしたので、買いです。
そして、読み進めていると、以下の文章に出くわしました(池田諭さんの訳です)。
たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。数時間前に考えていたことが頭によぎり、心がとらえられてしまいました(^-^;)
葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります。
一枚の葉に心をとらえられれば残りの葉は見えません。一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。
「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、「言葉を聞いて心を聞かず」というフレーズが浮かびます。
書籍『わもん』の「『わもん聴覚』で聞く」の節に、以下の文章があります。
たんに「耳で聞く」という意識で聞いていると、どうしても言葉にしばられやすくなります。そこで、「声なき声」をとりこぼすことなく受けとるために、「わもん聴覚」という発想転換をしてみるのです。「わもん聴覚で聞く」という気持ちになってみると、言葉のまわりにあるさまざまな情報を、もれなくつかみとる態勢ができてきます。
「わもん聴覚」の場合、「聞く」というよりも、「感じとる」「察する」に近い感覚です。
「声なき声」を聞くためには、一枚一枚の言葉に心を止めず、話し手の全体を聞くことです。