2012/06/28

わもんな言葉8-わもん聴覚 #わもん

夕方にふと「言葉」というのは、「言」の「葉」だな、と思いつきました。

ということは、「言幹」とか「言根」とかもあってもいいんじゃないかとも。

しかし、そのような言葉はありません。


言いたいことの葉っぱが「言葉」とすれば、言いたいことの「幹」とか「根」とかもあっていいんじゃないかな、と思いを巡らしていると、「言いたいこと」を「植物」に例えているな、とあらためて気づきます。


私たちは何か植物を見るとき、その葉っぱの形状や色などから植物を見分けているように思います。

植物学的な分類方法は知りませんが、常緑樹や落葉樹とかは葉っぱがどうなるかという分類ですね。

銀杏や紅葉などは、葉っぱの形や色に特徴があります。


言葉もそのような傾向があるかもしれません。

その言葉を聞くことで、その人の特徴などを知る手掛かりになります。


しかし、それが全てではない。

植物も葉っぱだけではありませんし、人も言葉だけではありません。


こんなことをうつらうつらと考えていましたが、それほど深く考えることもなく、走りに出かけました。

走った後は、本屋さんへ行くのが習慣です。

何故かと言われても困りますが(^-^;)


で、本屋さんで本を眺めていると、沢庵禅師の『不動智神妙録』の文庫本を発見。


『不動智神妙録』は、沢庵禅師が柳生但馬守に剣禅一如を説いたもので、講談社学術文庫版の『五輪書』に、よく引用されていたものでしたので、買いです。

そして、読み進めていると、以下の文章に出くわしました(池田諭さんの訳です)。
 たとえば、一本の木を見ているとしましょう。そのなかの赤い葉一枚に心を止めて見れば、残りの葉は目に入らないものです。
葉の一枚一枚に目を止めずに、木の全体を何ということもなく見るなら、たくさんの葉が全部、目に入ります。
一枚の葉に心をとらえられれば残りの葉は見えません。一枚の葉に心をとらえられることがなければ、何千枚の葉だろうと、すっかり見えるのです。
数時間前に考えていたことが頭によぎり、心がとらえられてしまいました(^-^;)

「木を見て森を見ず」という言葉がありますが、「言葉を聞いて心を聞かず」というフレーズが浮かびます。

書籍『わもん』の「『わもん聴覚』で聞く」の節に、以下の文章があります。
 たんに「耳で聞く」という意識で聞いていると、どうしても言葉にしばられやすくなります。そこで、「声なき声」をとりこぼすことなく受けとるために、「わもん聴覚」という発想転換をしてみるのです。「わもん聴覚で聞く」という気持ちになってみると、言葉のまわりにあるさまざまな情報を、もれなくつかみとる態勢ができてきます。
「わもん聴覚」の場合、「聞く」というよりも、「感じとる」「察する」に近い感覚です。

「声なき声」を聞くためには、一枚一枚の言葉に心を止めず、話し手の全体を聞くことです。


2012/06/22

わもんな言葉7-わもん入ってる

内田樹先生の「直感と医療について」というブログ記事内に「私はなんとか武道論や身体論を学術的に基礎づけたいと思っているのである。」という言葉があり、内田先生がどのようなことを考えているのか気になりました。

内田先生のことは、恥ずかしながら、ツイッターでしか知らず、どこかの大学教授ということくらいしか知りませんでした。

さらに、内田先生のツイッターのアカウント名が「@levinassien」で、これを『リヴァイアサン』と読み違えていて、社会学とかその系統の教授だと勝手に思っておりました(^-^;)


で、冒頭のブログ記事が頭の片隅に残っていたためか、本日、本屋さんにフラッと立ち寄ったときに、内田先生の名前を見つけ、何か武道論や身体論のことが書かれた著作を読んでみようと思い、書棚を眺めて1冊を選びました。

『武道的思考』というタイトルの本です。

『身体で考える』という対談の本と迷いましたが、対談集よりは著作の方がいいかな、と。

早速読みはじめています。

まだ、途中までしか読んでいませんが、興味深く読めそうです。

「武道」の本旨を「人間の生きる知恵と力を高めること」とし、「人間の生きる知恵と力を開発する技術の体系」と捉えた上で、様々なよしなしごとが書かれています。


文章は、「家事について」という項の次の言葉。

剣と杖を振り続ける稽古について、「私」が「剣」を「揮っている」と、主語と他動詞と目的語の構文でこの動作を捉えている限りは苦役であるとして、
 私たちはそこに「私・剣複合体」が生成して、それが「動きたいように、動いている」という体感構造に身体の文法を書き換えるために稽古しているのである。
それが無意識のうちにできるようになれば、他のどのような「もの」と出会っても、私たちは一瞬のうちに、それと「溶け合って」、自在に動きたいように動くことができるようになるはずである。

「わもん入ってる」を思い浮かべました。

「わもん入ってる」は(おそらく)「intel入ってる」のもじりで、「intel」といえば、パソコンのCPU。

CPUは、「Central Processing Unit」の略で、「中央演算装置」などと訳されます。

「わもん」は「話す」と「聞く」で「わもん(話聞)」。

話すとき、聞くときのひとつの文法、演算装置です。


身体の文法を「わもん」という文法に置き換えるために、「聞く修行」が提唱されています。

「話し手」と「聞き手」という二元的な会話の技術ではなく、一元的な話聞一如の境地。


「道」を極めることは、同じような境地に行きつくのかもしれません。


ちなみに、内田先生のツイッターアカウントは「レヴィナシアン(@levinassien)」で、レヴィナスからきたものだと知りました。

奥付の著者プロフィールによると、専門はフランス現代思想、武道論、教育論。

しかし、「まえがき」では「本業は武道家」とのこと。



2012/06/20

わもんな言葉6-話聞一如

先日の「患者の身になる技法」を読んでいて、ふと思い出したことです。

思い出したといっても、はっきりとは思い出せず、世阿弥の『風姿花伝』の中に、役になりきるというような部分があったな、といった類。

で、探してきた言葉が以下です。

手元にある岩波文庫版の『風姿花伝』は校注のみで現代語訳がなく、また漢字も旧漢字で読みづらかったので、昨年出版された講談社学術文庫版『風姿花伝』も手元にあります(が、未読)。

該当の個所を探したところ、岩波文庫版は旧漢字、講談社学術文庫版はカナで書かれていました。

読みやすくするために、漢字を常用漢字(当用漢字?)にして、旧仮名遣いで引用します。
物真似に、似せぬ位あるべし。物真似を極めて、その物に、まことに成り入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、面白きところばかりを嗜めば、などか花なかるべき。例へば、老人の物真似ならば、得たらん上手の心には、ただ、素人の老人が、風流、延年などに、身を飾りて、舞ひ奏でんが如し。もとより、己が身が年寄りならば、年寄りに似せんと思ふ心あるべからず。ただ、その時の、物真似の人体ばかりをこそ嗜むべけれ。

例えば老人の物真似(演劇でいうと、老人の役)で、それを極めると、老人に「似せよう」あるいは「なろう」と思うような心がなくなる。

極めている人はもう老人そのものなので、老人に「なろう」という気がない、ということです。

その位を「似せぬ位」といっています。


そしてまたふと思い出します。

学習の理論だったか、モデルだったか忘れましたが、学習の段階として4つの段階があるということをが頭に浮かびます。

最初の段階は「無意識の無能」
簡単にいうと「できないことを知らない」状態です。

次の段階は「意識的な無能」
「知ってはいるができない」状態。

3つ目の段階は「意識的な有能」
「やろうと思っていたらできる」状態。

最後は「無意識の有能」で、
「無意識にできる」状態。


『風姿花伝』の「似せぬ位」と、学習理論(?)の「無意識の有能」がつながります。


前回記事の「患者の身になる技法」、話を聞くことに当てはめると「相手の身になる技法」の極みは、「似せぬ位」。

「わもん」でいうと「話聞一如」の状態です。




2012/06/19

患者の身になる技法

神田橋條治さんの『追補 精神科診断面接のコツ』に「患者の身になる技法」という章があります。

そこに、先日の記事でも紹介した「離魂融合」について書かれていましたので、自分なりにまとめてみたいと思います。


「患者の身になる技法」には、以下の表が載っていました。

(『追補 精神科診断面接のコツ』より作成)

患者の身になる技法を、「①現実に場所を共有する」技法、「②イメージで場所を共有する」技法、「③現実に身体を共有する」技法、「④イメージで身体を共有する」技法の4つに分けて説明していました。


「①現実に場所を共有する」というのは、患者の置かれている現実の場に身を置くという技法です。

本の中で挙げられているでいうと、例えば「患者が座っていた椅子に腰掛けてみる」「保護室の中に実際に入ってみる」「ベッドに実際に寝転んでみる」など、実際に患者の空間的な位置に自分も立ってみるということです。

患者からは自分はどのように見えているのか、どのような風景がみえるのか、座り心地や寝心地などの感覚も含めどのように感じているのか、実際に患者と場所を共有することで患者の身になってみるというやり方です。


往診であれば、直截的に場所を共有することができますので「①現実に場所を共有する」といえますが、診察室での診察など、実際に場所を共有することができないときもあります。

その場合に「②イメージで場所を共有する」方法を利用できます。

例えば、間取図を書いてもらうと、自宅や部屋のイメージが共有されます。

あるいは、話を聞いているときにイメージづくりをして、話題になっている場を視覚化していくことです。


③の「現実に身体を共有する」技法は、コーチングでいうところの「ペーシング」とか「ミラーリング」のスキルです。

患者の姿勢や動作と同じ姿勢や動作をしてみる。

同じような口調やアクセントや言葉遣いをしてみる。


そして、④の「イメージで身体を共有する」とは、③の「ペーシング」「ミラーリング」をイメージでする方法ということになります。

『追補 精神科診断面接のコツ』から引用すると、
「患者の身になる」技法としての離魂融合現象では、体全体、躰の感覚全体が向こうに移ってしまうようになる。そして、こちら側の肉体と意識とは、ほとんど死に体というか、意識にのぼらなくなり、患者の肉体に重なっている部分が意識し、体験しているような錯覚が生じてくる。いや正確には生じてくるように努力、工夫するのである。つまり、こちら側の自分の心身に注意が全く向かず、どんな姿勢をしているのか、どんな表情か、どんな気分か認知されない状態をつくるよう努力するのである。

これが「離魂融合」という技法。

そして、この状態が完成されたときは、
患者の心性がつかめたような新鮮なひらめきが生ずることが多い。それまで見過ごしていた、患者のちょっとした動作や、表情に重要な意味が付加されるという場合が多い。
とのこと。


この本にも書かれていることですが、言葉は「イメージの画材」という性質もあります。

「離魂融合」という技法が、冒頭での表のように「イメージで身体を共有する」技法と位置づけられたことで、すこしイメージしやすくなりました。

2012/06/14

「離我」と「離魂融合」

『齋藤孝の聞く力』の中で、やぶちゃんのいう「離我」を見つけました。

ちょっと長いですが引用。
 カール・ロジャーズ派のカウンセリングでも、患者の言葉をそのまま繰り返す「オウム返し」の技があるのだが、神田橋先生はその技法と身体活動を真似る技をさらに進めて「離魂融合」というすごい名前の技を開発する。
 どんな技かというと、人が死んで死体から魂がスッと抜け出す。そのイメージで自分の身体から幽体離脱した自分の立体コピーが患者のところに行き、患者の身体とぴったり重なり合う状態を想像する。いま流行の言葉でいえば“憑依”なのだろうか。
 患者の身体に重なった自分は、身体つきも姿勢も感覚もすべて患者と同じになって、意識だけがもとの自分のままである。
 すると、ほんの一瞬しか達成できないらしいが、自他の境界が消滅した瞬間のような一種奇妙な感覚に襲われるらしい。少しだが自分を見失う恐怖感さえ伴うという。その時に、患者の心がつかめたような新鮮なひらめきが生ずることがある。あるいは、それまで見過ごしていたちょっとした患者の動作に意味を見取ることができるようになるという。何ともすごい技だ。

神田橋先生というのは精神科医師の神田橋條治先生で、著書『追補 精神科診断面接のコツ』に、このことが載っている模様。

カウンセリング系統の本は読んだことがないですが、読んでみようかな。


「離我」については以下。



これを身につけるとなると…、まだ遠い。

しかし、身についたとなると…、確実に「聞く力」がついたと言えます。


『齋藤孝の聞く力』には、その他にも聞く力を上げるためのヒントがたくさん。

しかし、読むだけでは意味がない。

実践あるのみ。





わもんな言葉5-一期一会

物語を読み終えるとその語り口が移ってしまうときがある。語り手が自分の中にいるような気分だ。例えばヒーロー物の映画などを見た後、その主人公になったように思えることもある。自分が強くなったような錯覚。

今は『アラビアの夜の種族』を読み終えて、そのままの余韻の語り口で書いてみよう。

先日、「『アラビアの夜の種族』を途中までしか読んでいない」ということをブログに書き、その日から読み始める。そして、先ほど読み終えたばかり。

結論から(ではないけれども)いうと、以前に読んでいた。途中で止めていたわけではなかった。内容を忘れていただけだ。読み進めるうちに記憶は甦る。物語が再生される。


古川日出男さんの『アラビアの夜の種族』は、文庫本で3分冊されている。単行本としては1冊。どちらも手元にあるはずだが、単行本の方は見当たらない。文庫本を買ったときにひょっとすると処分してしまったのかもしれない。あるいは実家に持って帰ったか。

いずれにせよ、今手元にあるのは文庫本3冊で、時間があれば読んでいた。おかげで「夜の種族(ナイト・ブリード)」の仲間入りだ。生活に支障をきたすには至らなかったものの睡眠は削られていた。

その中からの引用。
 書物とはふしぎです。一冊の書物はいずこより来るのか? その書物を紐解いている、読者の眼前にです。読者は一人であり、書物は一冊。なぜ、その一冊を選んでいるのでしょう。ある種の経過で? ある種の運命で? なぜ、その一冊と――おなじ時間を共有して――読むのでしょう? 読まれている瞬間、おなじ時間を生きているのは、その一冊と、その一人だけなのです。
 一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指すのです。

はじめに、語り口が移ってしまいその語り口で書いてみよう、とわたしはいいましたが、引用した部分と最初の語り口が違っているように思う方もいらっしゃると思います。それは『アラビアの夜の種族』には幾人もの語り手がいるからです。著者(訳者といったほうがいいかもしれませんが)の語り、ズームルッドの語り、アイユーブの語り、そして書物自身の語り――様々な語り手がいます。

一冊の書物、物語にとっては、読者、聴き手が必要です。もとめている者のまえに物語は顕現われます。

『アラビアの夜の種族』のなかで、物語は、語り手として聴き手として、人間そのものとして顕現われます。そして人間も書物として。
「本よ」とファラーはいいました。「おれは、おまえだ」
生きている書物だった。あるいは一冊の人間だった。

一冊の書物にとって、読者とはつねに唯一の人間を指すならば、一人の話し手にとって、聞き手とはつねに唯一の人間であることがいえます。逆もしかり。聞き手にとって話し手は唯一の人間です。
「そして物語は」とズームルッドはいった。「それをもとめている者のまえに、かならず、顕現われます。ですから、あなたが、わたしたちの目前に」


さて、今回は口調(文体)を変えて語ってみました。

このような語り口のわたしと出会うのは、これが最初で最後かもしれません。





2012/06/11

記憶について

なんだかよくわからない文章になってしまっていますが、「記憶」について思うこと。

上手く言葉にすることができていません。


で、唐突にはじめますが、恩田陸さんの『光の帝国』は、特別な能力を持つ一族の物語です。


春田家の人々は、大きな引き出しを持っています。

ありていに言えば「記憶力」

並外れた記憶力です。


子どもが生まれると、真っ先に書見台をこしらえ、子どもはその書見台で書物を読み「大きな引き出し」に『しまって』いきます。

最初は何のために『しまって』いるのかわかりません。

しかし、どうやら『響いて』くるようです。


『しまう』ことに疑問を持っていた小学生の光紀が、初めて『響いた』ときの描写が以下です。
光紀は老人の肩をつかむと叫んだ。いかつい顔の落ちくぼんだ目がかすかに動き、光紀の視線を捕らえた。
その瞬間、何か激しくて大きな質量をもったものが彼の中に押し寄せてきた。
それはさまざまな色を持ち、あふれる音を持っていた。
老人の人生のありとあらゆる声が、光紀の頭の中に、身体全体にこだました。
毎朝通りかかる道で顔見知りの老人が、急に心臓発作で倒れます。

光紀は倒れた老人に駆け寄ります。

そして、肩をつかみ、視線が合った瞬間に『響き』はじめます。


その後、文庫本で約1ページほど、老人の人生が光紀に『響き』ます。


実際に体験したことはありませんが、人は死ぬ直前に自分の人生が走馬灯のように見えるという話はよく聞きます。

小説の中で、この老人は亡くなってしまうのですが、老人も亡くなる前に自分の人生が走馬灯のようにみえたのでしょう。

そして、光紀にもその走馬灯が見えたのだと思います。


記憶のメカニズムはまだ解明されていません。

私たちはどうやっていろいろなことを記憶しているのか。


私は、「記憶は遍在している」という考え方が好きです。

記憶は脳の中に蓄えられているわけではなく、身の周りのものや出来事、環境、状況、ありとあらゆるものに記憶が存在しているというような考え方です。

もちろん(!?)実証はできませんが。


先の引用の例でいうと、老人の記憶が光紀に移ったとか、移動したというのではなく、文字通り「見えた」「聞こえた」

まるで自分の記憶のように。


『サイコメトラーEIJI』という漫画がありましたが、それと同じようなもの。

説明でわかりやすかったのは京極夏彦さんの小説『姑獲鳥の夏』です。


小説や漫画での例ばかりですので、実際にはあるはずがない、と思われる方もいらっしゃると思います。

しかし、例えば、昔の写真をみてそのときの情景が浮かびあがったり、ある匂いから別の何かを思い出したりすることはあると思います。


もちろん頭の中にある忘れていた記憶が、写真や匂いがきっかけとなって脳裏によぎるとも言うことができますが、その写真や匂い自体に記憶があって、それを感じたとも言えなくはありません。


そして、私たちにも『響く』能力があるのではないか、と思っています。

2012/06/08

わもんな言葉4-不立文字

前回の「わもんな言葉3」で『沈黙』を再読したついでに、古川日出男さんの『アビシニアン』を再読。

文庫本が出版された当時に読んで以来なので、話の筋を全く覚えておらず、初めて読むような印象で読めました。


しかし、古川日出男さんの小説は、すごい!


感覚を言語化するのがとても巧みで、物語化されています。


文芸批評などしたことはありませんので、どこがどのように上手いなどということは私にはできませんが、なぜ今まで再読しなかったのだろう、とちょっと後悔しています。

そういえば『アラビアの夜の種族』は途中までしか読んでいないな…。


古川日出男さんの小説で初めて読んだのは『13』ですが、『13』は視覚について、特に色彩のイメージ。

『沈黙』は聴覚。

そして『アビシニアン』は嗅覚。


もちろんそれだけではないですが、「感覚の物語」「感覚の小説」のような気がします。

「物語の力」を感じます。


で、本題に入って、「わもんな言葉」ですが、『アビシニアン』からひとつ引用するとすれば、次の個所です。
たいせつなことがひとつあった・・・・・・ひとつだけあった。それはこれらの絵がずっとわたしになにかを告げようとしていたことだ。死んだ意味ではない。葬り去られた意味ではない。文字としての意味などではない。そのことは認識できた。だから、ここから――絵を絵として、観賞して観ることにより――得られる印象は、ことばの心愽だと感じた。残像が響きであり、それがほんもののことばの到達する場所を、地点を指し示している。

「わもん」でのテーマを何にしようか迷いましたが、「わもん」の言葉ではなく、「禅」の言葉「不立文字」がいいかと。


不立文字――文字を立てない。


文字や言葉が不要であるというわけではありません。

鈴木大拙さんがどこかで「『不立文字』といいながら、禅には多くの言葉がある」といった意味のことをおっしゃって(書いて)いましたが、伝達の手段として言葉は重要です。

しかし、言葉では伝えられないこともある。

同じく禅の言葉として「直指人心」という言葉があります。

直ちに人の心を指せ。


言葉は「そのもの」ではありません。

言葉は媒介、器、パッケージです。

便利な道具ではありますが、言葉にするときに何かがそぎ落とされてしまいます。

デフォルメされてしまいます。


直ちに人の心を指すには、言葉が邪魔になる場合もある。

不立文字。


ついでながら、禅には四聖句というものがあります。

「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」の4つ。

以前にちょっとこのブログにも書いたことがあります。(「禅の四聖句」参照)


私の中では、「不立文字」と「教外別伝」はセットで、そこから「直指人心」、そして「見性成仏」という流れです。

「文字を立てない」「お経(教え)の外で別に伝える」そして「直ちに人の心を指せ」、そうすれば「本性が見えて仏に成れる」。


そして「見性成仏」をわもん用語(?)に直すと、「聞けば叶う」だと思っています。




2012/06/07

わもんな言葉3-離我

好評(!?)だったため、調子に乗ってストックを連投しています。

今回のテーマは「離我」です。


「わもん」と出会う前に読んだものですが、「離我」という言葉のイメージから連想した場面です。
無響室で自分の心臓の鼓動を聴いた。胸の上に聴診器めいたマイクをあて、機械が体内音を拾いあげて、密室の中央に横たわるあたしの外部から、スピーカーで聞かせる。猫のお腹に耳をあてるよう。ただ、移動している感覚がある。猫のばあいにはそれはない。スピーカーの配置とコンピュータ・プログラムの細工。心臓が外側にあるのではない。あたしが要するに、中心を喪失している感覚だった。肉体からの遊離。あたしがきわめて精神的な存在となる。幽体離脱とはこういう感じだろうか。聴力に集中して、肉体を――重さのある肉体を喪失する。
引用元は、古川日出男さんの『沈黙』

「離我」という言葉を聞いたとき、古川日出男さんの小説の場面が浮かびましたが、どの小説か思い出せず、そのままとなっていました。

先日より少しずつあたりをつけながら手持ちの本を読んでいましたが、やっと発見。


実際、どんな音なのでしょう。

自分自身の内部の音が、外部から聞こえる感覚は。


仕事柄、自分の声を録音したものを聞くことがときどきあります。

自分が発する声と録音されて流れる声は違って聞こえます。

骨伝導、でしたっけ?

初めて自分の声を聞いたときは、「これが自分の声?」と、おそらくは誰もが違和感を持つと思います。


私は自分の心音を聞いたことがありません。

しかし、もちろん心臓が動いていることを感じたことはあります。

外から感じ取ることができたなら、かなりの違和感を感じるのではないかと想像します。


そして、タイミングよく(!?)「へその緒周波数交流」という新語。



思えば、胎児のときは母親の胎内で、母親の心音を内部から、自分からすると母親の心音を外部から聞いていたのですね。

そのときの感覚は……、さすがに記憶にありません。


書籍『わもん』には、次のような言葉があります。
まずは、「話し手の心臓の音を聞く」「鼓動を感じる」という感覚をもってみるとよいと思います。
……(中略)……
心臓音は、話し手の命がそこにあることのあかしです。「命の音」と言ってもよいでしょう。それを聞くことは、「命を聞く」ことだと思います。
私は、話し手の「命の音」も、自分自身の「命の音」も、まだ聞いたことがありません…。


全く別のことですが、今回、『沈黙』を再読するにあたって、次のような言葉も見つけました。
あなたの人生のアウトラインを示す情報は受けとっていた、あとは――ここで、あなたの人生に波長をあわせる。どんな音のエレメントが必要なのかは――推理と、直観だった。
これも「わもんな言葉」だと思います。



2012/06/05

わもんな言葉2-音を聞く

勝手にシリーズ化しようとしている「わもんな言葉」です。

シリーズ化とはいえ、不定期な更新ですので、ご了承ください。


とはいえ、「わもん」の提唱者である、やぶちゃん(藪原秀樹さん)から、ツイッターで励ましの言葉をいただいたのはありがたいかぎりです。



さて、「わもんな言葉」についてですが、あくまで「わもん言葉」です。

「わもん言葉」とは異なります。


私は本を読むことが好きで、本を読んでいると「あ、『わもん』だ」と思うような文章がときどき見つかります。

「『わもん』は実用学」なので、おそらくは「わもん」を探せば至るところにあるのでしょうが、私にとっては本を読んでいるときに気付くことが比較的多いような気がします。

そこで、私が「『わもん』だな」と感じた文章などを紹介していこうという試みです。

なので、「それは違うだろ!」というようなものもあるかもしれませんが、ご容赦ください。


今回のテーマは「音を聞く」

結城浩(著)『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』の登場人物エィエィの言葉です。
「ときどき《音楽がわからない》という人がいる。うまく言葉にできひんことをすべて《わからない》と片付ける人やな。音楽を、そのまま味わおうとしぃひん。言葉にできなくてもいいんや。言葉にならんから、音にしてるんやから。言葉にしたがる人は、音を聞いてへん。言葉を探してばかりで、演奏者が生み出した、かんじんの音を聞いてへん。音が響く時間を、音が広がる空間を、味わってへん。言葉探すな、耳すませ! ……ということや」

エィエィが音楽について力説しています。

「言葉にならんから、音にしてるんやから」


「わもん」では、話を聞くとき、言葉だけでなく、音も聞くことが大切です。

音の高さや調子、大きさなど、言葉の意味だけではなく、その言葉に載せている音も感じ取る。

音だけでなく、表情やしぐさ、視線や身じろぎ、など。

非言語的なものを含めて「わもん」コミュニケーションです。


言葉にはできないもの、ならなかったものが、口調や声の高低、音量や音階、表情や態度に現れているのではないかと思っています。

「わもん」はそれらも「感じろ」と。


私自身はまだまだ修行の身ですので、なかなかこの域まで感じることができませんが、「言葉探すな、耳すませ!」…ということです。



2012/06/03

わもんな言葉

ジェームズ・ハンター(著)『サーバント・リーダー』の中で、「わもん」のような記述があったのでご紹介。
「積極的に聞くという作業は、頭の中でおこなわれます」。彼は続けた。「積極的に聞くためには、ほかの人の話を聞こうとするあいだ心の中の会話を黙らせておくという、訓練された行為が必要となります。雑音を締め出して、ほんの数分であっても相手の世界に入りこむという犠牲を払う努力が必要です。積極的に聞くということは、話し手が見るように物事を見ようとすること、話し手が感じるように物事を感じようとすることです。話し手との同一化、共感は、たくさんの努力を必要とするのです」
ここでは、「積極的に聞く」ことについて述べられています。


私たちは何気なく聞いているとき、頭の中ではいろいろなことを考えています。

「何が言いたいのだろうか」
「きっとこういう話だ」
「それはちょっと違うのでは」
「話が長いな」
「今日の晩ご飯は何だろう」
などなど。
「わたしたちは、話すよりも四倍速く考えられるといいます。結果として、聞いているあいだに、たくさんの会話が心の中で雑音として去来します」
積極的に聞くためには、こういった心の中の会話を黙らせておく「訓練された行為」が必要となるとのこと。

「わもん」でいうところの「完全沈黙」ですね。

書籍『わもん』から引用すると、
 完全沈黙とは、なにも考えずに、話し手が話を終えるまで聞ききることです。
 まず、自分の頭や心をおちつかせ、自分のなかにわいてくる、考えや感情を鎮めていきます。「聞く」というたったひとつのことに、どこまでも集中していくことによって、自分の考えや感情から離れていく感覚です。
 そして、話し手に絶対尊敬を贈りながら、どんな話も聞いたままに受けとめていきます。聞き手の「ものさし」(価値判断)はいっさい出しません。話し手の考えや感情を否定しないことはもちろん、賛成もしません。ただ、「話し手はそう思っている」という事実だけを、しっかりと受けとめるのです。
「相手の世界に入りこむという犠牲を払う努力」
「聞き手の『ものさし』(価値判断)はいっさい出さない」

言葉は違えど、同じことを言っています。

書籍『わもん』には登場していませんが、「離我」ですね。


「話し手との同一化」というのも、わもん用語では「話聞一如」。

話し手と聞き手がひとつになった姿です。


和と洋で同じような言葉が出てくるのはすごいですね。





2012/06/01

思ったことをつらつらと

私は、いたずら系の受け答えが好きな傾向があるようです。


オペレーターさんから「処理を確認してほしいんですけど…」などと声をかけられます。

そんなとき、「『けど…』、何?」と笑って返すことがあります。

すると、そのオペレーターさんは、「えっと…」と言葉に詰まります。

そして沈黙…。


お客様を待たせてしまうのも何なので、助け舟を出します。

「『けど…』の後に続く言葉は何?」


もちろん、言いたいことは予想がつきます。

「処理を確認してほしいんですけど、見てもらえますか?」とか、「処理を確認してほしいんですけど、今お時間ありますか?」とか。


しかし、省略されているところを、何とか言語化してもらおうと試みます。


理由のひとつは、オペレーションの中で、途中止めをなるべくしないように指導しているからです。

そしてもうひとつの理由は、自分自身が相手の話を最後まで聞いてみようと思っているからです。


日本語に特有なのかどうかはわかりませんが、曖昧なまま話が進むことがよくあります。

残念なことではありますが、お客様とのやりとりの中でもしばしば。

で、自分自身の会話でもしばしば。


現に今も、「しばしば。」と止めてしまっています(笑)


自分自身、言葉を探すことがよくあります。

何と言ったらいいのかわからないとき、あるいは言葉として出したものの何だかしっくりとこないときは多々あります。


自分自身が求めていることを、他の人に求めてしまうのかもしれません。

とすると、自分自身が何を求めているのかは、他の人に何を求めているのかを知ることかもしれません。


途中止めの会話を止めてほしいと思っていても時と場合によりけりで、「お客様が『電話を代われ』とおっしゃっているんですけど…」と言われたら、さすがに「『けど…』、何?」などと尋ねることはしませんし、上司から「○○について確認したいんだけど…」と言われて、「『けど…』、何でしょうか?」と受け答えすることはありません。

「鏡の法則」というのは、こういうことをいうのかもしれませんね。

(『鏡の法則』という本があったと思いますが、未読です…。)

ということは、冒頭のやりとりから鑑みると、私はいじってもらいたいのか…。



話は変わって、「自分がされて嫌なことは他人にはしない」ということはよく言われます。

しかし、「自分がされてうれしいことを他人にする」というのはあまり聞きません。

なぜでしょうね?

肯定的な表現よりも否定的な表現の方が言語化しやすいのかもしれません。


そうすると、私が「言葉を探している」というとき、肯定的な表現を求めているのかもしれません。

と、ポジティブシンキング♪

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