2011/05/07

老荘思想についての覚書

先日より、「老荘思想」について勉強中で、今読んでいる本は、森三樹三郎『老子・荘子』(講談社学術文庫)です。

先日の記事にも書きましたが、私は、老子・荘子について名前を知っている程度で、「老荘思想とはどんな思想か?」と問われれば、上手く説明できません。


今までならば、荘子の「胡蝶の夢」の話は知っているので、そこから類推しながらの説明になっていくでしょう。

「胡蝶の夢」は、ご存じの方も多いと思いますが、次のような話です。

いつか壮周(荘子)は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私(荘子)は嬉々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心のゆくままに飛びまわっていた。そして自分が壮周であることに気づかなかった。
ところが、とつぜん目がさめてみると、まぎれもなく壮周そのものであった。
いったい壮周が夢の中で胡蝶になっていたのか、それとも胡蝶が夢の中で壮周になっているのか、私にはわからない。
けれども壮周と胡蝶とでは、たしかに区別があるはずである。それなのに区別がつかないのは、なぜだろうか。
ほかでもない。これが物の変化というものだからである。
(森三樹三郎『老子・荘子』より)

この話の前半部分は中学(高校?)の漢文の授業で習ったときから、ずっと頭に残っている話です。

壮周と胡蝶を区別するものは何か?
夢と現実を区別するものは何か?
逆に、壮周と胡蝶を同一とするものは何か?
夢と現実をつなげるものは何か?

さらには、この私がいる現実は、ひょっとするとだれかの夢ではないのか?

朝起きたら虫になっていた、というのはカフカの『変身』の世界ですが、「すべての話は夢でした」というようなオチの漫画などもあったと覚えており、物語などではよくあらわれるテーマ・手法でもあります。

ここから話を進めていき、おそらくはメタ的な説明をしていっただろうと思います。

それはそれで間違いではない(と思う)のですが、老荘思想の説明の一部分しかになっていないと思います。


まだ、受け売りの知識が大半となりますが、『老子・荘子』を読んでいくなかで学んだこと・感じたことを覚書として記述していきたいと思います。



「老荘思想」と一口に言っていますが、これは「老子の思想」と「荘子の思想」をまとめて言った言葉です。

まずは「老子」から。(普通に老子と書いた場合は人名を指し、『老子』と二重カギ括弧で書いた場合は書物を指します。)


■老子の思想

老子の生年・没年は定かでないようですが、だいたい紀元前4世紀の頃とされていて、孔子よりも後に生まれたとされています。時代としては、春秋戦国時代。周王朝は形としてはあるものの、実質は無政府状態。日本で言えば、戦国時代のような時代です。

『論語』で有名な孔子は儒教の祖。儒教は、徳と礼で以って秩序ある社会・政治を目指しています。

それに対して、老子は、徳や礼など人為的なものが諸悪の根源で、人為的なものがあるから社会が乱れている、と主張し、「無為自然」を根本としています。

人為的なもの、人工的なもの、不自然なもの、こうした人間の意識的な事柄が、欲望や争いを生み出す原因なのだ、と説きます。人為的なものを退け、自然な状態に戻すことが狙いです。

例えば「知識」も人為的なものとして否定します。

私たち人類は、様々な知識を得ています。「理解する」「分析する」「判断する」などの言葉を使いますが、それらは「分ける」ことによって「分かる」。「解」や「分」、「判」や「断」などの漢字は「分ける」ことを意味しますし、そもそも「わかる」という言葉は「わける」からきたとも言われます。

このように私たちは分けることで理解を深めていますが、逆に分けることで自然の在り方や対象を壊しているのではないか。

例えば、残酷ですが、私の首を切ったとき、頭は私といえるのか? 胴体は私といえるのか? 人為的に分けることで対象を破壊し、あるがままの全体を見えなくしているのではないか?

争いにしても、「敵」「味方」と分けているから争いが起こるのではないか?
分けることで対立や差別が生まれるのではないか?

人為的なものを退けることで、対立や差別を避け、自然な状態に戻ろう、というのが老子の思想です。


■荘子の思想

荘子はこれをさらに推し進めます。

老子も、孔子と同じく、目指していたところは「社会の安定」「政治の安定」です。

荘子はここから胡蝶となって悠々と羽ばたきます。

老子の思想は、政治色が強いのに対し、荘子の思想は宗教的・哲学的な色彩を帯びてきます。

地球の年齢と私の年齢を比べたら、私はほんのちょっとしか生きていません。そんなちっぽけな瞬間であれこれ悩んでも地球に影響はありません。今を悠々と生きよう。極端に言うと、こんな思想です。

冒頭の「胡蝶の夢」でいうと、壮周も胡蝶も「私」です。別に不都合はない。姿形は違うかもしれないが、それが変化である。万物は変化している。「生」も「死」もひとつの状態であり、変化しているだけだ。万物流転の思想です。

さらに推し進めると、私は世界であり、世界は私である。


ここまで読んで想像された方も多いと思いますが、老荘の思想は「禅」の思想にもつながっていきます。

「無」の思想。

言葉も否定されていきます。名を与えるということは、まとまりをつけること。無限(かもしれない)ものを有限としてしまう。周りを線引きし、区切りをつける。言葉とはそんなものです。


私は、老荘の思想、禅の思想に深く魅かれています。しかし、一方で「言語」についても興味を魅かれています。(実際、大学の専攻は言語学でした。)


人間と言語、認識。

老荘思想や禅の思想では「無為自然」「無我の境地」を目指しています(こういってしまうと有限のようになってしまうので、相反する表現となりますが…)。私の興味は「無から有」へのプロセスです。

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