先日の記事にも書きましたが、私は、老子・荘子について名前を知っている程度で、「老荘思想とはどんな思想か?」と問われれば、上手く説明できません。
今までならば、荘子の「胡蝶の夢」の話は知っているので、そこから類推しながらの説明になっていくでしょう。
「胡蝶の夢」は、ご存じの方も多いと思いますが、次のような話です。
いつか壮周(荘子)は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私(荘子)は嬉々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心のゆくままに飛びまわっていた。そして自分が壮周であることに気づかなかった。
ところが、とつぜん目がさめてみると、まぎれもなく壮周そのものであった。
いったい壮周が夢の中で胡蝶になっていたのか、それとも胡蝶が夢の中で壮周になっているのか、私にはわからない。
けれども壮周と胡蝶とでは、たしかに区別があるはずである。それなのに区別がつかないのは、なぜだろうか。
ほかでもない。これが物の変化というものだからである。
(森三樹三郎『老子・荘子』より)
この話の前半部分は中学(高校?)の漢文の授業で習ったときから、ずっと頭に残っている話です。
壮周と胡蝶を区別するものは何か?
夢と現実を区別するものは何か?
逆に、壮周と胡蝶を同一とするものは何か?
夢と現実をつなげるものは何か?
さらには、この私がいる現実は、ひょっとするとだれかの夢ではないのか?
朝起きたら虫になっていた、というのはカフカの『変身』の世界ですが、「すべての話は夢でした」というようなオチの漫画などもあったと覚えており、物語などではよくあらわれるテーマ・手法でもあります。
ここから話を進めていき、おそらくはメタ的な説明をしていっただろうと思います。
それはそれで間違いではない(と思う)のですが、老荘思想の説明の一部分しかになっていないと思います。
まだ、受け売りの知識が大半となりますが、『老子・荘子』を読んでいくなかで学んだこと・感じたことを覚書として記述していきたいと思います。