2011/10/31

学而第一・16「子曰、不患人之不己知。~」

久々に論語について。学而第一の最後です。
子曰く、人の己を知らざるを患えず。人を知らざるを患う。

他の人に自分のことをわかってもらえないと心配するな。自分が他人のことを知らないことを心配しなさい。

この言葉と似た言葉が、論語の他の個所にもでてきます(憲問第十四・30、衛霊公第十五・19)。それだけ重要な言葉として扱われていたのではないかと思います。

自分のことをわかってもらうためには、言葉を使ったり、身体で表現したり、言動で現す必要があります。それらの言動は自分の一部。自分の全てを伝えようとするとなかなか難しい。

同様に他人の言動から他人のことを全て知るのは難しい。

どちらも難しいことですが、他人の言動からその人のことを知ろうとする方が、自分のためにもなり、その人のためにもなるかと思います。

2011/10/30

笑声

オペレーターのモニタリングでの評価項目の中に、次のようなものがあります。

「声に笑顔が感じられたか?」

「笑顔」ならぬ「笑声」というもの。

かなり主観的な評価項目だと思います。

なので、オペレーターからときどき
「どんな話し方をすれば笑顔が感じられるか?」
という質問を受けることがあります。
そんなときはいつもこう返します。
「実際に笑顔で話してみて」

モニタリングは、顔が見えないところで行いますが、SVならば、オペレーターの顔は見える。

笑顔で電話対応をしているかどうか、というのもひとつの着眼点ですね。

笑顔を増やすためにも、自分も笑顔で(^-^)

観察する

松波晴人『ビジネスマンのための「行動観察」入門』(講談社現代新書)

「観察」という言葉を聞くと、シャーロック・ホームズを思い出します。ホームズとワトソンが「見る(see)」と「観察する(observe)」について話をしているからです。(引用は Camden House より)
… “You see, but you do not observe. The distinction is clear. For example, you have frequently seen the steps which lead up from the hall to this room.”
“Frequently.”
“How often?”
“Well, some hundreds of times.”
“Then how many are there?”
“How many? I don’t know.”
“Quite so! You have not observed. And yet you have seen.
-- A Scandal in Bohemia

ホームズはワトソンに、「見ているけれど観察していない」と言います。その例としてホームズはワトソンに問いかけます。(以下、意訳)
「キミはこの部屋に上がる階段を何度も見てるよね?」
「何度も見てるね」
「何回くらい見ている?」
「そうだね、数百回は見てるんじゃないかな?」
「何段ある?」
「何段? 知らないよ」
「そこだよ! 見てはいるけど、観察していないんだ」

あるいは、小宮一慶『ビジネスマンのための「発見力」養成講座(ディスカヴァ―携書)には、セブンイレブンのロゴの話が載っています。

ところで、セブン‐イレブンのロゴが「7-ELEVEn」と、最後が n で、小文字なのをご存じでしたか?

「観察力」「発見力」の話を聞くと、「目の付けどころが違う」と思ってしまいます。視点が違うのです。

では、このような異なる視点を持つにはどうしたらいいのか? ホームズや小宮さんの例は、階段やロゴというモノが対象でしたが、人間の「行動観察」ができるようになるにはどうすればいいか?

松波さんは、「大きく2つ重要なことがあります」と言います。

ひとつは「自分の価値観から自由になること」。もうひとつは「人間についての知見を持つこと」。

どちらも、自分一人では気付きにくいことです。

2011/10/29

夢の日ウィーク

本日(10月29日)、『夢の日2011 笑顔のコーチングファシリテーター大集合 in京都』に参加しました。

11月1日は「夢の日」。

忙しい日常の中、「夢の日」というキーワードで、ふと忘れかけていた夢を思い出す日があってもいいのでは、という思いから始まった日です。

そして、本日(10月29日)から11月6日までを「夢の日ウィーク」として、NPO法人『HelloDream』では全国各地でイベントを行っていきます(詳しくはコチラ)。

その皮切りが『夢の日2011 笑顔のコーチングファシリテーター大集合 in京都』。


実は(!?)、私は「笑顔のコーチングファシリテーター」なのです!!

とはいっても、笑顔のコーチングの開催実績はなし。部活でいうところの幽霊部員。

他の笑顔のファシリテーターの方々もあまり知らず、そんな状態でしたが、このような機会はあまりない機会だ、と思い参加した次第です。


結果として、参加してよかった、と思います。


まずは、HelloDream代表の小巻亜矢さんのお話。

HelloDreamの活動についての概説や、小巻さん自身の活動のお話など。HelloDreamの活動については、ホームページや笑顔のコーチングで本間先生が話されていたことなどで知ってはいましたが、小巻さん自身の口から話を聞くと、さらに強い思いが込められているのに気づきます。

自己紹介では、持ち時間1分であるところ、皆さん思いが強く、伸びました。かといって、「話が長いな…」と思うこともなく。

また、近く笑顔のコーチングを開催される方の予行演習。ちょっと緊張されていたようではありましたが、一番大切な「笑顔」を忘れることなく実施されていました。


何よりも、いろいろな方々とお話しできたこと。


今年2月に「笑顔のコーチングファシリテーター養成講座」を一緒に受講されていた方々と再会したこと、メーリングリストで名前だけ知っていた方々のお顔を拝見したこと。

さまざまなつながりができました。


夢の日イベントの今年のテーマは「つなぐ」。

笑顔のコーチングファシリテーターのつながりを始めとして、夢の日ウィークは続きます。


また、ちょっと別の話ではありますが、本日京都に行くということで、京都で仕事をしている友人とも本日会ってきました。

高校のときの友人で、会うのは高校卒業以来となるので十数年ぶり。

ここにもつながっています。

2011/10/24

何故、昔から僕たちの感情の中心は、脳のどこかではなくて心と決まっているのだろう?

Why does tradition locate our emotional center at the heart and not somewhere in the brain?
(何故、昔から僕たちの感情の中心は、脳のどこかではなくて心と決まっているのだろう?)

高校生のときに買ったCD、Sting 『…NOTHING LIKE THE SUN』のジャケット内に書かれていた言葉です。

この言葉を読んだときの感想は全く覚えていないのですが、いつも頭の片隅に残っている言葉です。

素敵な言葉として残っています。

心に残っていると言った方がいいのかな。

親知らずが痛い

先日から、親知らずが痛みはじめました。

炎症を起こしているような感じです。

じんじんとした痛みが続いています。倦怠感がつきまとっています。


私は、4本全ての親知らずが生えていて、左上の親知らずを2年前に抜きました。親知らずとその隣の奥歯の間に虫歯ができて、その虫歯の治療の際に抜きました。

そのとき、歯医者さんに「他の親知らずはどうする?」と尋ねられ、いっそのこと抜いてしまおうと思ったのですが、下の親知らずを抜く際の説明を聞いて止めました。


私の下の親知らずは、横向きに生えています。肉眼でも見えます。

横向きに生えている親知らずは抜きにくいようです。

私の受けた説明では、
  • 歯茎を切らなければならないこと
  • 親知らずを割って取り出さなければならないこと
この2つのことを覚えています。

長期的な治療になるということで、また、その当時は左上の親知らずの虫歯だけで他の親知らずは特に何もなかったので抜歯することはありませんでした。


しかし、今、痛い…。我慢できない痛みではないですが、気になってしまいます。


ちょっとWEBで親知らずのことを調べてみたところ、All Aboutに以下の記事がありました。
親知らずの生え方と抜歯の難易度

私の場合は、難易度2と3の間ぐらいではないかと思われます。

画像処理がへたくそですが、だいたいこんな感じです。
上の図で、親知らずの頭が出ているような状態。


しかし、ずっと気にしておくわけにもいきませんので、まずは歯医者に行ってみようと思います(-_-;)

2011/10/19

龍安寺の石庭

突然ですが、最近、禅に興味を持っています。思えば子どもの頃から禅の要素に触れてきたのでは、と感じ始めました。

今、読んでいる本のひとつに、プレジデント別冊『禅的シンプルライフ』があります。

この本の中に「禅の庭」という記事があり、「枯山水」を代表する庭である「龍安寺の石庭」の紹介がありました。

「枯山水」というのは、水を使わず水の流れを表現したような庭。龍安寺の石庭は、白い砂利を敷き詰め、そこに波のような紋様を描き水を表現していると言われています。

Wikipedia「龍安寺」で、龍安寺は禅宗の一派である臨済宗妙心寺派の寺であることを、今、知りました。

神社とかお寺とか、それほど興味はないのですが(ちょっとはあります)、小学校か中学校の歴史の授業で「枯山水」という言葉を習ってから、龍安寺の石庭は見てみたいと思っていた場所です。

中学校の修学旅行が京阪神方面で、グループで京都を自由に観光する時間がありました。自由にといっても思いつきで行動していいわけではなく、事前に計画を立てて先生に提出しておかなければならなかったのですが、その際に「(他はどこにいってもいいので)龍安寺にだけは行ってみたい」と主張したことを思い出しました。結局その希望はかなわなかったのですが…。

せっかく今、関西にいるので、近いうちに龍安寺には行ってみたいと思います。

2011/10/16

10マイルもの道を走るのは容易じゃない

本日(10/16)、『大阪長居国際マラソン』に参加してきました。タイトルには「マラソン」とありますが、フルマラソンの部はなく、10マイルと10kmの2種目。参加したのは10マイルの方です。


1マイル=1.6kmとすると、10マイルは16km。

今年に入ってから、週2回くらい走ってはいますが、最長12kmくらいしか走ったことはなく、16kmにぶっつけ本番でのぞみました。

普段はスポーツジムのランニングマシン上で、大体11km/hで1時間走っています。1kmあたりに直すと、約5分30秒のペースです。ならば、1kmあたり6分(=10km/h)で走ると、16kmは1時間36分。これならばいけるかも、と考え、目標は1時間35分以内に完走することとして臨みました。もちろん、完走することの方が優先度の高い目標です。

長居陸上競技場をスタートして、長居公園の周りをぐるっとまわり、長居陸上競技場に戻ってくるのを5回繰り返す周回コースです。


しかし、疲れました…。

1周目は「なかなか調子がいいな」と思って、自分よりちょっと早めかな、という人の後ろについて走っていましたが、2周目・3周目になると、その人が少しずつペースを上げてきて(あるいは私がだんだん疲れてきて)ついていけなくなりました。4周目からは前を見て走る余裕がなくなり、前方に走っている人の足の動きを見て走っていました。

5周目には、太ももが痛くなり、そしてそのうちふくらはぎが痛くなり、足が重くなっていくのがわかります…。

思えば、前回10kmの大会に参加したときも、ふくらはぎが痛くなりました。普段は全く痛くならないところです(太ももはよく筋肉痛を起こします)。ふくらはぎの筋肉が痛くなってくると、無理をしている証拠と思っています。

さらに私の場合、ふくらはぎに力を入れすぎると足をつります(今までの経験で足をつったことが2、3回あるのですが、そのすべてがふくらはぎに「自分で」力を入れて足をつりました…)。完走が必要条件(?)ですので、「やばいかも」という不安が頭をよぎりました。

なんとかゴールできたのですが、足はガクガク。これから筋肉痛が待っているかと思います…。

このブログ記事を書く参考に、以前の10kmの大会のときのブログ記事(「淀川国際ハーフマラソンに参加」)を見てみると、何だか似たようなことを書いています…。


今日のペースでは、次のハーフマラソン(「ハーフマラソンに挑戦」参照)の完走は難しいです。もう少しペースを抑えて走らなければなりません。どうも、身体に走るペースが身についていません。日ごろ、ランニングマシンにペースを任せてしまっているのが原因かもしれません。今日は周回コースだったので、1kmとかの表示がなく、ペースがわかりづらかったのかもしれません。

あ、記録ですが、手元の時計では1時間32分でしたので、ここはOK (^-^)


3週間後には、ハーフマラソンに挑戦です。先ほど紹介した記事(「淀川国際ハーフマラソンに参加」)は2011年3月20日のものですが、そこには「来年はハーフに挑戦してみようと改めて思いました。」との言葉。半年早くハーフに挑戦です。


(下の本は、本文とは何の関係もありません。この記事のタイトルとは多少関係あり。)

2011/10/11

禅の四聖句

坐禅したこともないですが、禅に興味があります。

おかしな言い方ですが、禅の考え方が好きです。禅者に言わせれば、「野狐禅」です。


禅の根本義と言われるものに「四聖句」というものがあります。4つの聖句です。その4つの聖句とは、「不立文字」「教外別伝」「直指人心」「見性成仏」。禅宗を確立した初祖達磨大師の残した言葉とされています。


ひとつめの「不立文字(ふりゅうもんじ)」。文字を立てない、ということですが、文字や言葉を否定しているわけではありません。「釈迦の悟り」を伝えるものは文字や言葉では言い表せない。体験するしかない。言葉や文字は、補足にはなるかもしれないが、伝えたいものは釈迦の言葉や文字ではない。体感、経験が必要であることをいいます。

「教外別伝(きょうげべつでん)」の「教」は、お経・経典の「きょう」ともいえるかもしれません。経典のように言葉や文字で伝えるのではなく、以心伝心で、直接の体験として、師から弟子へ伝えていく。

世尊、昔、霊山会上に在って花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟だ迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊云く、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」。

釈迦牟尼世尊が、昔、霊鷲山で説法された時、一本の花を持ち上げ、聴衆の前に示された。すると、大衆は皆黙っているだけであったが、唯だ迦葉尊者だけは顔を崩してにっこりと微笑んだ。そこで世尊は言われた、「私には深く秘められた正しい真理を見る眼、説くに解くことのできぬ覚りの心、そのすがたが無相であるがゆえに、肉眼では見ることができないような不思議な真実在というものがある。それを言葉や文字にせず、教えとしてではなく、別の伝え方で摩訶迦葉にゆだねよう」。
(岩波文庫『無門関』より)

「世尊拈花」あるいは「拈華微笑」といわれるエピソードですが、このとき、釈迦から摩訶迦葉に微妙の法が伝わりました。摩訶迦葉を1祖とすると、達磨大師は28祖です。

「直指人心(じきしにんしん)」は、「直ちに人の心を指せ」。単純にいうと、「自分を見つめろ」。自分の心をただただ見つめなさい、と言っています。

そして「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」。「性」は「心」ともいえるでしょう。心を見つめると仏に成る。「悉有仏性」。自分の中の仏性を見つけ、見つめることで、あなたが仏である。


最後の「見性成仏」は、禅宗も仏教であるから仏様としていますが、自分自身を見つめることで、(この言い方は本当の自分が別にあるようで嫌なのですが、)「本来の自己」になれる、とも言い換えることができるかと思います。

禅では、「坐禅」、「ただただ坐れ」といいますが、坐ることは目的ではなく手段なのです。

2011/10/09

言葉に思いをのせて

先月に引き続き、今月も心徒塾に参加しました。

心徒塾という場は、不思議な空間です。「聞く達人・聞き方の黒帯を目指す修行の場」なのですが、修行からイメージされる厳しさとか忍耐とかは感じることなく、楽しく過ごせる時間です。かといって、単に楽しくおしゃべりをする空間ではなく、真剣な場。どちらか一方に偏った場は日常的にもあるのですが、どちらも体感できる場はあまりありません。

そこでの修行のひとつにある「朗読稽古」。言葉で言ってしまえば、同じフレーズを全員が一人ずつ順番に音読するという単純なものです。しかし、深い。

音読するだけならば簡単にできるのですが、「朗読稽古」では、例えば筆者の思いであるとか、感情であるとか、あるいは情景や状況のイメージなど、それらを言葉に乗せて音読する。表現力を鍛えるという意味もあり、文章やその行間からの思いを読み取る力を鍛える意味があります。

本日の「朗読稽古」では、私の文章の読み方の癖(?)に気が付きました。

まずひとつは、イメージに空白があること。

日頃は、なるべく先入観を捨てて物事を見たり聞いたりするように努めていて、それはそれで間違ったことではないと思っています。そして何かしらの文章を読むとき、例えばある風景の描写の文章を読んだとき、私の頭の中のイメージには言葉に描かれているものしか描かれていません。それが言葉を具体化したイメージだと思っていました。

しかし、そのイメージには空白部分が多くあります。朗読稽古中の他の方々の感想を聞いて、そのことに気が付きました。

そしてもうひとつは、ひとつめのこととも関係があるのかもしれませんが、静止画であること。

あるひとつの文章があり、そして文章が続くとき、スライドが切り替わるように場面が頭の中のイメージが変わっているような気がしました。ひとつ目の「空白部分が多い」ということと合わせて考えると、時間的な空白があるとも言えます。動画ではなく静止画です。

朗読稽古の前に、朗読稽古のポイントを一人ずつ発表したのですが、そのときに私の語った言葉は「言葉は入れ物。その入れ物に思いを載せて音読する」といったこと。

これらをひっくるめて考えると、文章の書き手は何らかの思いを込めて文章を書いていますが、私のイメージの中では文章に載せてある思いがなく言葉の器だけになっているのではないのか? そこに自分の思いを載せて音読するならまだしも、何も載せずにそのイメージを伝えようとしているのではないのか? 


以前にTEDで、ポール・ブルーム「喜びの根源」というプレゼンを見ました。そこではなぜ贋作より本物を好むことについての考えの発表があり、来歴を感じたいという趣旨のことが述べられていました。



茶碗も、例えば「織田信長が使っていた茶碗」となると、箔がつきます。価値もつきます。

言葉も、その人がどのように使っているのか、使ってきたのか、どのような思いが込められているのか。

言葉も器。その言葉に価値観や思いや感情を載せる。

そのような言葉が、本物として感じられるのではないのか、と感じます。


2011/10/08

「ジブン手帳」の交点

先日、手帳のことについて記事を書き(「来年の手帳に求めること」参照)、この記事がきっかけで、本日、「ジブン手帳」の佐久間さんとお会いしました。

このブログは更新通知をtwitterとfacebookに送っています。おそらくは「手帳」というキーワード検索から佐久間さんの目にとまり、「ジブン手帳」の紹介のツイートをいただきました。そこから数回のやりとりがあり、本日お会いした次第です。

@sanotomo3 はじめまして。手帳のことについてつぶやかれてfb見ましたが凄くこの手帳に通じるものがありまして。sanotomo3さんから見てこの手帳いかがでしょうか? http://t.co/9DTAAW2q http://t.co/kKtnqGaNWed Sep 28 17:43:20 via ついっぷる/twipple


こちらは佐久間さんが昨年作った手帳(2011年の手帳)のプレゼン資料


「面白そうな手帳だな」と思い、近くの書店をのぞいてみましたが実物はありませんでした。2012年版の発売はもう少し先のようです。

手帳は人それぞれ使い方も違えばこだわりどころも違います。私は手帳を新しくする時期になるとあれこれ毎年迷うのですが、最後の決め手となるのはやはり実際に手に取ってみたときの印象・感覚です。実物を手に取って見たい、と思いました。amazonでは2011年版は販売されていましたが、今さら2011年版を買う気にはなれません。

そんな折に、佐久間さんが大阪に来るというお話があり、私もちょうど予定が開いていたので、「実物が見れるチャンス」とばかりにお会いすることに。2011年版ジブン手帳と、まだ製本前の2012年版の「ジブン手帳」を見せていただきました♪

お会いして感じたのは、やはり、「手帳へのこだわり」です。

私自身は手帳に関して、もちろん使いやすさなどは考えますが、最終的には印象や感覚で使っています。こんな手帳あったらいいな、とか、もうちょっとこうなっていれば、など考えることはありますが、市販品はやはり市販品で私個人のために販売しているわけではありませんから、まあ仕方がない、と考えて使っています。

しかし、佐久間さんはそういったことを「仕方がない」と考えるのではなく、何とか形にしようと考えます。そして昨年「ジブン手帳」の発売までこぎつけました。

お話の中で一番、「こだわっているな~」と感心したのは、「日の出・日の入」の話。

「ジブン手帳」はバーチカルタイプの手帳で24時間のメモリがあります。(画像はfacebookページ「ジブン手帳」より)
写真は2011年版のものですが、時刻の目盛り軸で太い線と細い線があるのがあるのがわかると思います。

なんと、太い線から細い線に変わっているところが「日の出」、逆に細い線から細い線に変わっているところが「日の入」。つまり、毎日違う!
上の写真は2011年5月のページ、下の写真は2011年12月のページです。
違いがわかりますかね。

当然(?)、「そこまでこだわらなくても…」という声はありそうですが、佐久間さん曰く、「人間がよりよく活動できる時間帯は日の出、日の入に関係している。」「日の出、日の入の移り変わりで季節の移り変わりも味わってほしい。」

1日1日を大切にしている気持ちが伝わってきます。

その他、2011年版からの改善点や、「ジブン手帳」の使い方、「ジブン手帳」の販売方法や流通のことなど、様々なお話を聞くことができました。全く見知らぬ人に会うということもあり不安もありましたが、自分の好きなことを語り、実行している佐久間さんは人当たりもよく、非常に楽しい時間を過ごすことができました。

私は、来年の手帳を「ジブン手帳」にすることを決めました。

「ジブン手帳」の昨年版(2011年版)からの改善点に、方眼目盛りの交点のことがありました。方眼の点線の罫線について、その縦横の交わり部分で昨年版は、ちょっとズレてしまっていたようです。大げさに書くと下図のような感じです。
2012年版では、このズレがないようにしたい、ということも話されていました。

身の回りには様々な製品がありますが、それらの製品の製作者の方々と直接お話しできる機会はそうそうありません。佐久間さんのように、私もこういった人との出会いの交点も大切にしたいと感じた次第です。

「ジブン手帳プレゼン」
twitterアカウント:@jibun_techo
Facebookページ:「ジブン手帳

2011/10/01

音をたてずに食べる

独りで外食。

注文をすませ、食事がくるまで本を読もうと『無関門を読む』のページをめくると、「照顧脚下」という文字がありました。

禅の道場の玄関の札に「照顧脚下」と書かれているとのこと。「脚下を照らして顧みよ」つまりは「履物をきちんとそろえて上がれ」ということになります。

そのあとに、次の言葉が続きます。
それはいちおうそれでよいのですが、「照顧脚下」はただそれだけのことではありません。
摂心(集中坐禅会)に参加した始めは「たくあんをかむ音をたてるな」と先輩に怒られるので、たいていの人がかまずに飲み込んでしまいます。しかし、「脚下を照顧せよ」というのも、「たくあんの音をたてるな」というのも、禅では単なるお作法の教えではありません。それはまず第一に、ともすれば外に飛びがちの私どもの心を内に摂める、そこで自己にとって返すという大切な修行の用心を示す教えの一つなのです。
この部分を読んで、ちょっと試してみようと思いました。

これからくる食事を食べるとき、なるべく音を出さずに食べてみよう、と。

ちょうど、注文した料理が運ばれてきました。注文したのは「青椒肉絲定食」です。

たくあんほどは音が出ませんが、ピーマン・たけのこも噛めば音がなります。かといって、噛まずに飲み込むわけにもいかず、ゆっくりと力を入れながら音をなるべくたてないように噛んでいきます。

音を出さずに噛むのは難しい。

ゆっくり徐々に力を入れながら噛み、また徐々に力を入れながら噛み、と何度か繰り返して、飲み込めそうになったら飲み込みます。

自然と口の中に意識が集中します。箸いっぱいにとって食べることはせず、少量をつまんで口の中に入れます。ゆっくりと何度も噛むことで食べ物の味がいつもよりもわかったような気がしました。

思えば、私は食事には結構無関心で、お腹が膨れれば何でもいい、といった感じで食事をとっています。食事をファストフードですませることもよくあります。しかも毎日のように行って、同じものを食べることもしばしば。ちょっと反省しつつ、ゆっくりと食べました。

数年前、「スローフード」という言葉が流行ったときがありましたが、なかなかいいものですね。

ゆっくりと味わいながら食べる。

「音をたてないように食べる」ことは、礼儀作法のひとつなのかもしれませんが、食事をありがたく味わいつつ食べることができるという優れた点があることに今さらながら気が付きました。

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