儒学の四書のうちのひとつ『中庸』について、伊與田さんが行った講演の講演録です。
その中の一節。
この「徳」には二つの面があります。一つは、目には見えないが、内にあって大きな働きをしている徳。木にたとえると根に相当するところの徳を「玄徳」といいます。他方、外に現れる徳。木にたとえると幹や枝、葉・花・実にあたる部分ですが、これを目に見えるから「明徳」というのです。
当然(?)のことながら、「玄」を思い出します。
わもん黒帯は「初段」から「七段」まであり、次は「名人」。
その後、「匠」「聖」「玄」と続きます。
この段位がいつどのように名付けられたか、由来は全く知らないのですが、「玄徳」と関係がありそうな気がします。
「玄徳」とは、「木にたとえると根に相当するところの徳」というのも、また面白いところ。
言葉は「言の葉」で、1枚の葉っぱに気をとられると全体が見えなくなる。
音を入り口に話を聞き、葉っぱのみならず根っこへ。
根っこの音が「本音(根)」。
「玄」という漢字には、「ほの暗くてよく見えない」「奥深くて暗い」という意味があります。
学習理論でいうところの「無意識の有能」を思います。
「わもん入ってる」ことさえ忘れた心境。
意識せずとも話を深く聞ける心境。
「道は則ち高し、美し、約なり、近なり」とは、吉田松陰の『講孟箚記』の序の冒頭。
高く美しくもあり、簡単で身近なもの。
まだまだ私は「意識的な無能」段階かもしれませんが、「意識的な有能」そして「無意識の有能」へと学んでいきたいと思います。
「中庸」に学ぶ
わもん -聞けば叶う