仁義礼智一体異名也。是中心也としるべし。故に夫子の道は忠恕也と云へり。忠は即ち中心也。恕は如心也。中心而如心なれは、万に一も悪事なし。
「玲瓏集」は池田諭さんの言葉を借りれば、
「不動智神妙録」が自分が自分になりきる方法を説き、「太阿記」が自分と他者との関係を説いているとすれば、「玲瓏集」は、本質的根源的立場に立って、自己とは何か、自己は何によって生き、何によってもっとも自己らしい本質を生かすものかを究明しようとしたものである。というものです。
「仁義礼智一体異名也」とは、「仁」や「義」や「礼」や「智」というのは、ひとつのものに別々の名前をつけているということです。
欲で埋まっている身体の中に無欲で正直な中心がかくれていて、その中心のことを、あるときは「仁」と呼び、あるときは「義」と呼ぶ。
一体異名の仁義礼智が中心であることを知ることが「是中心也としるべし」です。
「故に夫子の道は忠恕也と云へり」とは、『論語』里仁15の文言を指していると思われます。
子曰く、参。吾が道は一以て之を貫く、と。曾子曰く、唯、と。子出づ。門人問うて曰く、何の謂いぞや、と。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ、と。
孔子が曾子に「私の道はひとつのことで貫いている」と言うと、曾子は「はい」と答えます。
孔子がいなくなってから、門人が「何のことを言っていたのですか?」と尋ねたとき、曾子の答えが「夫子の道は忠恕のみだ」というものです。
加地伸行さんの『論語』では、「忠」は「まごころ」、「恕」は「思いやり」と訳されていました。
そして、池田諭さんの「玲瓏集」(『不動智神妙録』に所収)でも、同じく「まごころ」と「思いやり」です。
面白いと思ったのは、「忠は即ち中心也。恕は如心也。」という言葉。
「忠」という漢字を上下に分けると「中心」、「恕」という漢字は「如心」。
なるほど。
で、「中心」というのは、まあなんとなくわかるのですが、「如心」とは?
手元の国語辞典には載っていませんでした。
そこで、先日購入した『漢字源』で確認しましたが、「如心」という項目は載っていません。
ということで、漢字の意味から想像したいと思います。
「如」というのは「如(ごと)し」というときに使います。
「~のようだ」という意味ですね。
そこで、「如心」を「心のようなもの」という意味にとってみるのですが、まだつながりが見えないです。
「忠」、「中心」、「まごころ(真心)」がイメージ的につながるように、「恕」と「如心」と「思いやり」をつなぎたいのです。
というわけで、ちょっと視点を変えて、「思いやり」の方から考えてみました。
「思いやり」の「やり」を漢字で書くと「遣り」。
「遣り」は「遣る」の名詞形です。
「遣る」から考えると、「思いやり」には相手がいます。
誰かのことを思い遣る。
そうすると、「如心」というのは、「(誰かの)心のように」あるいは「相手のような心」とも考えられるのではないか。
そんな気がしてきました。
そうすると、「夫子の道は忠恕のみ」というのもうなずけます。
「吾が道は一以て之を貫く」と言いながら、「忠」と「恕」の二つを出しているじゃないか、と屁理屈を考えていたこともありましたが、「忠」と「恕」でセットですね。
「忠」は「自分の中心」「まごころ」、「恕」は「他者のような心」「思いやり」。
「忠恕」の意味が、何となくわかった気がしました。
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